可能性が理性を超えるとき
2026/02/14

🌿 30年サイクルの終わりと始まり
本日9時12分、土星が牡羊座に入りました。
ここから新しい約30年サイクルがスタートします。
牡羊座は、12星座の最初。
天体が牡羊座に入るとき、流れは、
「リセット」と「始まり」の方向へ傾きます。
天体のサイクルは、いくつも重なっていて、
土星だけで流れを読むわけではありません。
それでもいまは、
先日の海王星の牡羊座入りと重なり、
相当大きな切り替えの時期です。
前回の土星牡羊座入り(1996年4月〜)
その頃と、この30年の出来事の中で、
ふと、印象深いものを思い返してみてください。
ここからの流れの参考になるはずです。
🌿 妊娠・出産・子育て
わたしの30年を振り返るにあたり、
妊娠・出産・子育ては外せません。
20代は、親元を離れて一人暮らしをスタート。
自分の足で立つことが、楽しかった。
仕事や交友関係で日々は過ぎ、
家族をつくるとか、家庭を持つとか、
自分が母親になるなんてことは、
全く考えたことがありませんでした。
振り返ってみれば、20代の終わり。
前回の土星牡羊座入りの直後に、
ある決断をしました。
わたしにとっては、軽やかに迷うことなく。
両親にとっては、想定外で言葉を失うほど。
その翌年に、長男を出産しました。
──── ✵ ────
それから、2年2ヶ月後に娘、
さらに、2年2ヶ月後に次男が生まれ、
わたしの30代は、完全な専業主婦でした。
あえて「完全な専業主婦」と書いているのは、
妊娠・出産・子育てが日々を満たし、
その流れの中で、そうあることを自然に選んでいた、
という感覚があるからです。
もちろん、家庭の経済を背負う必要がない、
という背景もありました。
周りのバリキャリ女子たちは早々に仕事復帰。
その中で、完全に専業主婦という状況に、
わたしは馴染んでいました。
一度も嫌だと思ったことがない。
仕事に復帰しなければ、と思ったこともない。
だって、やることは目の前にたくさんある。
約12年ほどの専業主婦の生活。
後半には、子育てに病院通いや介護が加わり、
ローギアで急な登り坂を上がるようでした。
そして、その日がやって来て、
一気にトップギアへ切り替わり、
今の生き方へ振り切れるわけです。
適応力を十二分に発揮してきたなぁ、としみじみ。
🌿 子どもの視座から見えるもの
数年前、子どもたちは全員、
経済的にも精神的にも自立へ向かいました。
今も息子たち二人と同居していますが、
社会人になると共に、生活は別世帯になっています。
協力するところはし合いながら、
来年に向けて、独立の準備も始まっています。
子どもたちの算命学の命式を見たとき、
3人とも胸に「車騎」を持っていたんです。
わたしの周りに、ふわっと、
三角形のフォーメーションが見えた気がしました。
当時はまだ、全員小学生でしたが、
「子どものためにわたしがいるのではなく、
わたしのために子どもがいるのだ」
そう思って、胸が熱くなったものです。
──── ✵ ────
子どもたちの自立が見えてきたころ、
今までは、子どものお腹を満たすことや進学、
安心で安全な場を守ることが最優先だったけど、
「みんなが自立したあと、わたしは何をしようかな」
そうつぶやくと、その言葉に被せるように
長男が言いました。
「もう一人子どもを産んだらいいんじゃない。
そして、俺らに出来なかった子育てをしたらいいよ。
お母さん、子育て合ってると思うし。」
「え?」
わたしはてっきり、
「お母さんは子育てに向いていない」
と、言われていると思っていたのに。
当時、韓国で暮らしていた娘にそれを告げると、
「あ、わかる。もう一人、妹か弟がいてもいいな」
「はい?」
青天の霹靂でした。
子どもの視座からはそう見えているのか、と。
子どもが好きとか、子育てが好きとか、
そんな風に考えたことがなかったのに。
──── ✵ ────
わたしは4人目の子どもを流産しています。
妊娠9週目で心音も確認したのですが、
残念ながら、結実はしなかったのです。
ある時、ポロリと、
「もし子どもが4人だったら大変過ぎて
乗り越えられなかったかもしれないね。
これも、神の恩寵ってやつなのかな」
そうこぼすと、長男がすかさず、
「いや、お母さんなら4人でも育てられたはず」
と、力強く言い切ります。
なんだか、目の前のことを
コツコツやって来てよかったなぁ。
クラスでよく話すことがあります。
49ダメでも、51ヨシなら、天秤はヨシに傾く。
それくらいでちょうどいい。

🌿 来たがっている子ども
「玄花さんのところに来たがっている子どもがいます」
子どもたちから、
「もう一人、子ども産めば」
「お母さんは子育て合ってる」
と言われるのと並行して、
「来たがっている子ども(魂)がいる」と、
感性の豊かな人たちから、繰り返し、
そう言われていました。
──── ✵ ────
ハワイ島のリトリートで、
マウナケア山に登った時のこと。
夜が白々と明けてくると、
そこには、背の高い満開のシルバーソード。
世界でも4か所ほどにしか生息しない、
高地の希少な植物です。
開花はさらに珍しく、
数十年に一度とも言われています。
その日の夜、また言われました。
「玄花さんのところに来たがっている子どもがいます」
マウナケアで、その子が近づいてきた、と。
──── ✵ ────
普通に考えれば、その時のわたしはすでに、
この現象界の常識では、
妊娠に向けた条件はかなり厳しい状態でした。
我が家の子どもたちはさておき、
クラスの受講者も、リトリート参加者も、
それをわかった上でなお、そう言ってくる。
それを伝えずにはいられない、というように。
だけど、一人では、
その扉を開くことはできないのです。
🌿 身体は先に反応する
数年前まで、定期的に、
野口整体の身体観を土台にした
整体を受けていました。
ある日、言われたんです。
「玄花さん、身体が妊娠状態みたいです」
その頃のわたしは、関係性の前提も含めて、
妊娠に向かう条件がない状態でした。
そうであるはずがないのに、
身体はそうなっている。
念入りに身体を観察した上で、
「やっぱり、妊娠状態になっています」
また、ある日には、
出産間近の状態だと言われたこともあります。
そんなことが、今までに2回ありました。
わたしに何が起こっても、
ただ、ただ、笑うばかりです。
「玄花なら、そんなこともあるよね」
身体が何かの役立っているのか、
先取りしているのか、わたしには、わかりません。
──── ✵ ────
ああ、書きながら思い出しましたが、
パンデミックの頃、2021年1月のこと。
高熱を出し、1週間ほど寝込んでいました。
40度を超え、体温計の上限に張りついたような熱。
頭は尋常じゃなく痛い。
だけど、呼吸は出来ている。
ご飯も、なんとか食べられる。
ただ、並外れた頭の痛み。
汗がかけない。
熱が外に出ないから苦しい。
頭の血管が切れているのかと思ったほど痛い。
病院に行く気力もなく、
息子たちには放っておいてもらい、
ひたすら寝ていました。
1週間ほどして病院に行き、検査をすると陰性。
あれは何だったのだろう、と今でも思います。
直後に整体に行くと、
「よく、生きてましたね」
と、言われました。
越えてはいけない一線を越えた、
ということが、身体に刻まれている、と。
身体には、感謝するばかりです。
🌿 新しい30年サイクルを前に
そしていま、子どもたち自身はすでに、
自分たちの家族や家庭を持つフェイズへ、
ベクトルが向き始めています。
通り過ぎた月日。
その時にできることはやってきたから、
後悔は何もないと思っている。
だけど、わたしは、
「次はもっとこうしたい」という思いも、
どこかに持っているのではないのだろうか。
「次?」
「わたし、何を考えているのだろう」
──── ✵ ────
先月から腸の癒しのプログラムに入っています。
特にアレルギーがあるわけでもなく、
特定疾患があるわけでもないけれど、
いま、これをやらないと、と思ったんです。
本を読みながら、
腸内細菌はお母さんから子どもに渡るから、
お母さんの腸内細菌をよくしておかないと、
と、ふむふむ読み進めていたら。
自分のお腹をさすってた。
「何をやっているんだろう、わたし」
──── ✵ ────
「人間には無限の可能性がある」
うん、その可能性にはひらいていたい。
以前、人間が本来備え持っている可能性について、
詳しく聞いたことがあります。
生まれる前のオリジナルネイチャー、
「本来の性質」のことや、
母の胎内で起こることなども。
しかしもし、子育てを終え、
晩年に差し掛かった段階で、
あなたが本当に望めば次も不可能ではない
と、言われたらどう思うだろうか。
大抵の人は、すぐに理性が立ち上がり、
「そんなのは無理」と却下するだろうし、
心理的にも「もう、結構です」と言うだろう。
「人間には無限の可能性がある」
と、聞くとワクワクするけれど、
それを自分ごととして捉えると、
「有限で結構です」と思っていたりする。
──── ✵ ────
たとえば、年の離れた夫婦がいる。
多くの人は、きっと言うだろう。
「愛があれば年の差なんて、素敵だと思うわ」と。
しかし、それが自分の娘ごとになったら、
おそらく、反対する人の方が多いはずだ。
他人ごとには、寛容な気持ちになれる。
けれど自分ごとになると急に、
「それは無理」と理性が顔を出す。
だから、「人間には無限の可能性がある」なんて、
本当の意味で耳に入っていない。
つまり、信じてはいないのだ。
🌿 理性を超えると笑いが起こる
本当に望めば、それはありうる。
必要に応じて、その素材はやって来る。
それは以前から聞いていた話です。
けれど、わたしの場合もやはり、
どこか他人ごととして聞いていたのだな、
ということに、先日気づきました。
だけど、家に帰ってから、
それが突然、自分ごととして降りてきた。
「そこから望んでいいの?」
「なんだか、できそうな気がする」
そう思った瞬間、
からだ中の力が、すっと抜けた。
何より、うれしかった。
この可能性に心が動いたのは、
「できるかどうか」より、
「そう望める相手が、この世界にいる」
という事実だった。
そして、その相手に、すでに出会っている。
その事実が、胸の奥をほどいていった。
可能性がゼロではない。
けれど、自分一人の問題ではないから、
理性は「現実的ではない」と、ささやく。
その願いを、
願いのまま受け止められる人は稀だ。
受け取る器と、扱える静けさがいる。
何よりも、誰でもいいわけではない。
「そんなこと思っていいの?」
という問いが、止まらない。
つまり、そう思うことを、
理性が先回りして止めていたのだ。
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3人目を産んだ後の骨密度は19歳相当でした。
もし今ならば、全部持っていかれてしまうのでは、
と思う自分と、大丈夫と思う自分が拮抗している。
ああ、この手応え。
あちこちに向いていた身体中のアンテナが、
ひとつの方向へ向かっていく、この感じ。
今までに開いたことのない探求の扉。
その可能性が、ポンっと音を立てて現れた気がした。
一人では、決して開けない扉です。
もちろん、ただの妄想かもしれません。
だけど、妙にリアルで、ご満悦です。
もし、この現実が来たら、引き受けます。
この4日間ほど、可能性と理性が交互にやって来て、
さまざまな感情を味わいながら、身を委ねています。
こんなことを本気で思えるなんて。
生きるって、なんて楽しいんだろう。

🌿 手段と目的とその先へ
ダオイストには、こんな例え話があります。
行をやり込み、ある境地に辿り着く。
それは、難易度の高い山に登頂するようなこと。
山の頂に立って見える景色は、
次に登るもっと高い山である。
そうやって、もっと高い山、
さらにもっと高い山を目指していくのか、
縦走に入るのか、下山して別の道を行くのか。
選択は、さまざまです。
──── ✵ ────
こちら岸に立つあなた。
船に乗り込み、向こう岸に行きたい。
だけど、いつまで経っても到達しない。
船に乗るのは、
向こう岸に行く「手段」だったはずなのに、
いつの間にか、船に乗ることが「目的」に
なってしまうから。
なぜ、船に乗り続けてしまうのか。
向こう岸に辿り着いたあと、
どう生きるのかを描けていないからです。
到達すること"だけ"がゴールなら、
一生そこへは辿り着けない。
🌿 すべてはプロセス、通過点
ブログ「存立基盤|マワリテメグル」に書きました。
何かを成すときはいつも、
その“わたし”を、分かち合うためだった。
それは、消耗する献身ではなく、
自尊心を根にした、差し出し。
その、しなやかな覚悟を持っている。
──── ✵ ────
成すことの先を描く。
すべてはプロセスであり、通過点である。
とはいえ、その先について、
そこまで具体的ではなかったんです。
だけど、何かがハマった。
わたし、これをやりたい。
と、同時に、問いが立ち上がる。
本当の家族とは何か。
本当に愛し、愛されるとは何か。
その問いは、ここ数年、
日常のあらゆる場面に顔を出していました。
子どもたちが自立した後に家族をつくる。
なんとなく、漠然と考えていたことでしたけど、
それは、縁が結実してのこと。
どうなるかはわからない。
だけど、ここを新たな通過点として置くと、
今までの何気ない選択が、ひとつに繋がるのです。
そして、わたしの思考が、
過去の再生ではなく未来の可能性のために、
動き始めます。
🌿 すべてがこのための準備になる
いまの軸がしっかり立ち上がると、
過去は、いまの準備として読み直されます。
そして、
「なぜ、いまその山に登るのか」
その答えも、見出しやすくなる。
山に登るような取り組みを重ねると
働きが変わる内分泌は、
排卵・黄体・子宮内膜の条件を
整えるためにも必須です。
黄体ホルモンの「黄体」という名前が、
またなんとも。
内分泌は、妊娠に必要な「タイミング」と「環境」を
同期させてくれる指揮系統です。
その中心は、
視床下部→脳下垂体→卵巣の連携です。
受精卵を受け入れるためには、
免疫の調律も、欠かせません。
──── ✵ ────
「必要に応じて、その素材はやって来る」
この言葉を現実に落とし込むとき、
潜象界と現象界という視座が助けになります。
潜象界の働きが現象界に現れるなら、
現象界側には、必ず媒介が生じるはず。
その媒介は、
内分泌、免疫、代謝(ミトコンドリア)として
考えることができる。
ここまで来て、やっと、
可能性が、理性を超えてくる。
カタカムナを学ぶのではなく、
その領域にふれること。
こうした感覚が、古代の日本人のどこかに
当たり前に備わっていたとしても不思議ではない。
それは、発揮していきたいポテンシャルです。
🌿 愛すること、愛されること
身体の媒介が整えば、それで生命が来るのか。
そこだけでは足りないと、本能は知っている。
子どもがやってくるためには、
男女が、愛すること/愛されることに対して、
深くひらいている必要がある。
自己統合が進み、
関係性そのものが、
愛に対してひらいていること。
この「関係性のひらき」もまた、媒介になり得る。
それは恋愛の領域のようでもありますが、
一般的な言葉では言い表せない要素です。
ほんの少し言葉がすれ違うだけで、関係は、
両方が片思いのまま膠着してしまうこともある。
愛すること、愛されることへのひらき。
信頼、安心、受容、官能への肯定、相互性。
それは心の話に留まらず、
身体の基調としても現れる。
わたしたちは、
幸せになること、愛されることに、
とても臆病です。
──── ✵ ────
身体の媒介。
関係性の媒介。
身体が整う。
関係がひらく。
その同時性が、極まるとき。
そのとき初めて、
「生命が来る」という現象が、
現実味を帯びてくる。
🌿 恩寵の果てに
陰と陽が出会うと、
そこに第3のものがもたらされる。
二人のあいだに、
二人でなければもたらせない恩寵が降りてくる。
「場」かもしれないし、
「可能性の扉」かもしれない。
それが、子どもだとしたら。
思いの結晶化。
思いの実体化。
思いの、結実。
その可能性は、日頃、言っていることの体現でもある。
つい先日、「結実の合図」という
獅子座満月遠隔ワークを行ったばかりです。
──── ✵ ────
無限の可能性とは、
何でも起こる、という意味ではありません。
可能性を閉じない、という態度。
媒介を整え、関係をひらき、
場を一致させる、という方向性を相互に持つ。
そこに、恩寵はやって来る。
理性は、可能性を閉じるためではなく、
媒介を精密にするために使う。
生命は、身体の条件だけで来るのではなく、
二人のあいだに立つ“よろこび”にも、
引き寄せられる。
わたしは、そう信じています。
(初出:2026年2月14日)
バレンタインに愛を込めて。
胸の奥が、よろこびにほどけた日。
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出典・著作|玄花オフィシャルサイト
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