ただ、ついていく、でいい
2025/07/28
2025/07/31

🌿 意志の手前の透明な頷き
数日前──
7月25日、獅子座新月の朝。
ある感覚と共に、目が覚めました。
あえて言葉にするならば、
「ついていく」──それだけ。
問いも、迷いもなく。
決意というよりも、すでにそうであった、という
透明な、揺るぎのない確かさが、そこにはありました。
それはきっと、
ずっと奥深くで息づいていたもの。
なにかがほどけて、
その輪郭がようやく浮かび上がった──
そんな、不思議な心持ちの朝でした。
このような、
“理由の手前にある頷き”については、
以前綴った「ただ、好き、でいい」でも触れましたね。
理由づけや物語をまとう前の、
「ただ、そうである」という感覚。
その感覚に、
わたしはいつも、誠実で在りたいと思っています。
🌿 従順という、美しき頷き
“従順”という言葉があります。
その言葉には、どこか盲目的で、
主体性を手放すような響きを感じるかもしれません。
これを書きながら、ふと──
ひとつの記憶が浮かび上がりました。
7歳から柔道を始めた、
長男の高校進学の頃のこと。
高校柔道部について調べていたとき、
ある学校の監督の言葉が目に留まりました。
「ここには、『はい』か『Yes』しかねぇんだよ」
思わず、吹き出してしまったのを覚えています。
その道を歩むには、信頼と共に、
“従順に教えについていく”という心構えが
必要なのだということをわたしも理解しています。
けれど、この朝──
わたしの内側で感じた「ついていく」という感覚は、
それとは少し、異なるものでした。
──── ✵ ────
それは、阿吽の呼吸のような頷きであり、
意志よりも深いところからの応答であり、
自我の計算や防衛を超えて訪れた、感応でした。
わたしというプレゼンスを貫いているものに、
ただ頷いた──そんな、生まれて初めての感覚。
思考が「そうしよう」と判断するよりも早く、
感応のなかで、その頷きが引き出されたような。
深いところで、ずっと待たされていた
頷きとの出会いというか、なんというか。
それは、“確固たる決意”をも上回るもの。
──── ✵ ────
──わたしにとっての「従順」とは、
意志を超えて立ち現れる、深い同意のようなもの。
自分の奥深くから湧き上がった「はい」には、
選ぶとか、決めるとかでは届かない、絶対感がある。
それはきっと、
相手の中にある“ふるえ”に
共鳴した、ということなのかもしれません。
🌿 足を洗うマスターの記憶
ちょうどその前日のこと──
10年ほど前に旅した、
スペインでのある記憶が、
思いがけず呼び覚まされました。
あの頃、人生は多忙を極め、
子どもたちも小・中・高校生で、
心にも時間にも、余裕などなかったはず。
それでも旅に出るという選択をし、
行動に移したあのときのわたし自身を、
今でも、不思議に思うほどです。
──── ✵ ────
訪れたのは、バルセロナ、バレンシア、
アンダルシアにマドリードなど、スペイン南部。
いくつもの大聖堂と美術館。
現地に暮らす日本人のローカルガイドと共に、
宗教画をひとつひとつ解説してもらいながら巡る旅。
その中の、ある一枚の絵の前で──
わたしは不意に、立ちすくみました。
それは、マドリードのプラド美術館で出会った、
ティントレット作『弟子たちの足を洗うキリスト』
絵の前に立った瞬間、
解説の言葉よりも先に、涙があふれ、
どうしても目を逸らすことができませんでした。
──── ✵ ────
この作品は、最後の晩餐の直前──
イエスがひとりひとりの弟子の足を、
自らの手で洗っていく場面を描いたものです。
弟子の中には、裏切りを秘めたユダもいました。
イエスはその裏切りも、
自らの死も、知っていたとされています。
それでも彼は、すべての弟子の足元にひざまずき、
その手で静かに足を洗い、拭いていった──
それを拒もうとする弟子に、
イエスはこう告げたといいます。
「その意味は、あとでわかるようになる」
その言葉の重みが、
今のわたしには沁みてきます。
それは、理屈で理解するものではなく、
生きるという体験のなかで腑に落ちていくもの。
そこにあるのは、 力による支配でもなく、
教義による説得でもなく、 奇跡や超能力でもない。
ただ──
仕えることによって教える、慈悲という在り方。
──── ✵ ────
これまで、数々の奇跡を起こす
“神の子イエス”を語る物語に触れてきました。
けれど、わたしの胸を貫いたのは、
この絵の中に描かれた、
“弟子の足を洗うイエス”だったのです。
何と言えば、
このときの胸の震えが伝わるでしょうか。
言葉では語りきれない、
けれど確かに感応として刻まれた体験です。

スペインの記憶が──
ある会話をきっかけに思いがけず呼び覚まされ、
その流れの中で、
チベットのマスターの中に宿る、
陰と陽の在り方を耳にして胸を打たれたこと......
それは、きっと、偶然ではありません。
🌿 陰と陽の間で
──選ぶことなく、すでに在る
この二元の世界においては、
どのような存在であっても、
光と影、陰と陽──その両方を内包しています。
わたしは、いついかなる時も、
何に共鳴しながら、この道を歩いてきたのか。
その答えが、静かに、
そして明確に、浮かび上がりました。
「今から、どこに向くのか」ではなく、
気づけば、ずっとそこに向かって歩いてきた。
だから、今、ここにいる。
その確かさが──
翌朝に訪れた「ついていく」という頷きの感覚と、
深く、深くつながっていたのだと、今はわかります。
🌿 ハートでつながるために
陰陽統合の観点から言えば──
陰と陽を本当の意味で溶け合わせるには、
対立や反発さえも、必要な現れの一部です。
極と極が、出会うのですから。
それは勝ち負けの戦いではなく、
むしろ、出会うことそのものが
奇跡と言ってもいいでしょう。
たとえば──
一般に言われる“従順な心”は、確かに尊いものです。
けれど、それだけでは、陰陽の片側にすぎません。
──── ✵ ────
もういい。
もう無理。
もう嫌だ──
そう感じたときには、
諦めや悲しみ、葛藤の中に沈みながら、
心に浮かんだ反発や抵抗が雰囲気として、
自然と、顔にも、態度にもにじみ出てきます。
だけど、それを取り繕おうとは、しなかった。
いい人でありたい、
いい人と思われたいという
“きれいごと”を脱ぎ捨てて。
渦中にいるとき、冷静ではいられない。
けれど、決してその場を立ち去らなかった。
それこそが、わたしにとっての
全幅の信頼というものだったと思うのです。
内に生じる感情や反応とまっすぐ向き合いながら、
怖れや囚われや執着を、
ひとつずつ、自分の手でほどいていく。
そうしてようやく、
誰のせいにもせずに立ち上がったときに、
体験から生まれた知恵が、静かに根を張りはじめます。
もちろん、自分のせいにするのでもありません。
葛藤の中で見出した調和は、きっと、本物です。
──── ✵ ────
これは、いわゆる──
内なる陰陽の統合や、
内なる男性性と女性性の統合と呼ばれる、
自立の、本質なのだと思います。
その果てに──
自立したもの同士が出会い、
外の世界においても、
統合のその先にある“融合”が、静かに始まっていく。
そのプロセスのためにこそ、
わたしたちは、出会っているのかもしれません。
このブログのサブタイトルでもある
「わたしをほどく、いのちがひらく」──
それを、身をもって生きていくからこそ、
ほんとうに伝わるものが、あるのだと思うのです。
妥協はできません。
なぜなら──
ハートにふれたいから。
なぜなら──
ハートでつながりたいから。
そのために、
肉体も研ぎ澄ましていきたい。
それが、わたしの切なる願いです。
🌿 切なる願い
この願いは、ただの願望ではなく、
心の奥、深いところからの──
ほんとうの願いです。
“ハート”がなんであるのかも、
実のところ、よくわかっていないのかもしれません。
けれど、そうとしか言いようのないもの。
そこには、正直であろうと思っています。
わたしたちは、本当の意味で、
ちゃんと出会えているのかな。
──そんな問いを胸に、
獅子座新月の遠隔ワークを
「切なる願い」という名でお届けしました。
このブログで書ききれなかった想いは、
遠隔ワークの特典動画でわかち合いましょう。
──── ✵ ────
ここで出会えた奇跡と、
さらなる未知にひらかれていく歩みが、
どんなものであれ──
それを、心から信頼しています。
────
(初出|2025年7月28日)
獅子座新月の朝に目覚めた
稀有な感覚を呼び覚ましながら。
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