ただ、好き、でいい
2025/05/29
2025/06/02

🌿 見えないものを、信じてきた
わたしは、
目に見えない力や
目に見えない働きを信頼しています。
それに助けられてきた、
といっても、過言ではない。
運命を信じていますし、
過去世による縁もあるのでしょう。
ただ、それらを、
ちゃんとわかっている、とは言い難い。
だからこそ、
それを自分の正当化や根拠や、
言い訳に使うようなことはしたくないのです。
そこにはいつも、
謙虚でありたいと思っています。
これまでに、「あなたの過去世は..」と
人から語られたことが何度もあります。
その物語はすこぶる魅力的で、
「玄花」という存在の魅せ方として
そうした言葉を引用したこともあります。
今でも素敵なエピソードとして、
心の片隅にそっと置いています。
🌿 娘のまなざしが、幻想に楔を打つ
ある日、
「ツイン」や「ソウルメイト」
または、「前世」について、
娘と話していた時のこと。
──当時、セッションで、
聞かれることが多かったのです──
娘はすっぱりとこう言いました。
言ってしまえば全ては思い込み。
「自分に関わる人はこういう人」
と、思えばそういう人と出会っていく。
それは「赤い車を見る」と思って、
赤い車を見ているのと同じ状態。
出会った人がどういう人間か?
というのを考え過ぎてそれに縋りたい。
何か自分にとって
相手の存在意義を欲している。
ただ、好き。
じゃなくて、 だから好き、みたいな。
なにか、スペシャルにしたくなる。
なにか、スペシャルな意味をつけたくなる。
出会いの入り口から、
そうなる人が多過ぎる。
過去世的になんとかとか、
運命的にどうとか、 心が、とか。
ただ、純粋に
心がときめく、でいいのに。
理由づけから入るから邪心が生まれる。
人は自分が思っている以上に人間寄り。
人間寄りなのに、
スピ玄人の考えをしている人間、みたいな。
キリストになりきれなかった人間、みたいな。
行動に対して無理に理解しようとし過ぎ。
ただ、ジャストな気持ちだけでいい。
こう語った娘は、当時16歳。
あまりの迫力に、
一字一句をメモしたほど。笑
正しい・正しくない、ではなく、
その口ぶり、その熱が、胸にグッと来たのです。
ただ、純粋に
心がときめく、でいいのに。理由づけから入るから邪心が生まれる。
わたしにとって、ときめきとは、
心が‘ふるえ’る感覚そのものです。
🌿 ときめきに理由をつけた瞬間に
理由づけはつまり、目の前の人を、
ちゃんと見ていないということ。
ーーだから関わる。
ーーだからそうする。
ときめきに、
言葉のラベルを貼った瞬間に、
その輝きは、スッと色褪せてしまう。
🌿 不器用でもいい
娘との会話はいつも、
わたしのあらゆるところに刺さりました。
わたし自身、
どれほど思い込みやすいか、
どれほど理由づけしているか、
どれほど素直に「今」を見ていないか。
どれほど意地を張って、
「わたしは平気です」という顔をしていたか。
でも娘は、こう言います。
「それでも、
それがお母さんのいいところだと思う」
不器用なまでの意志の強さが、
わたしを——
人生の困難から救い、
人生の深層へと導いてくれました。
魂の底から、
本当に向き合うべきものの前へと、
わたしを立たせてくれました。
それは、紛れもない事実です。
けれど、
それだけが、わたしのすべてではないから。
🌿 物語では包めない「今」
わたしが思わず、
「過去世についてはちょっと...」
と、曖昧な言い方をするとき。
それは単純に、
過去世や前世を否定している
というわけではないのです。
相手との、
物語では包みきれない“何か”を
直観しているとき。
この感覚は、
前世というフォーマットに落とし込めるほど
ちいさなものではないと、観じるとき。
さらに、
既存の、関係性を表す言葉に、
当てはまらないほど大きい、と観じるとき。
わたしにとって、
過去世や前世とは、
それが、
ある・ない、信じる・信じない、ではなく、
今のこころのありように、
どれだけ正直でいられるかという問いです。
自分の弱さを知っているから──
それを物語に当てはめてしまったら、
きっとそれに囚われてしまうでしょう。
すると、今、ここに息づいている
こころやいのちのやり取りを、
おろそかにしてしまう気がします。
そして、
最初の「ハッ」とした“ふるえ”すら、
またたく間に消えてしまうと思うのです。
🌿 飾らずに差し出すということ
物語に囚われると自分を偽ります。
大人ですので、
大人の振る舞いくらいはできます。
やろうと思えば、
自分の気持ちを押し殺して、
「素直そうに」振る舞うこともできます。
でも、そうしようとしても、
カラダがそれについてこない。
わたしはときに、
不貞腐れたり、
不機嫌だったりを隠さないし、
とびきりの笑顔を見せたり、
声をあげて笑ったりもしながら、
「今」そのままのわたしを、
差し出していく道を選——
——びたくないのですけど、
気がつくと、そうしています。
くれぐれも誤解しないでくださいね。
“あるがまま”
という言葉を都合よく解釈して、
素直ではない自分に開き直るようなことでは、
決してありませんから。
🌿 砕かれてもなお、差し出したい
なぜなら、
わたしの目の前に現れる相手は、
わたし自身の鏡なのだと、そう感じているから。
もしそうであるなら——
その人はきっと、
わたしが想像も及ばないほどの、
過酷さや困難をくぐり抜けて、
ここまで歩いてきたのでしょう。
そして、もし——
その縁が本物であるならば、
わたしが塗り固めてきた
エゴも、幻想も、きっと、
そのまなざしの前に粉砕されていく。
それでも構わない。
むしろ、そうであってほしい。
わたしは、その砕かれるプロセスに、
まるごと自分を差し出していく。
その機会を、
ずっと、ずっと、探していたのですから。
だけどそのためには、
直観的な確信や共鳴だけでなく、
現実の中で関係を築いていくことが、
どうしても必要だと思うのです。
🌿 肉体を通してわたしを表現する
思いは通じる
というのは嘘ではありません。
しかしそれだけでは届かない。
なんのために
この肉体を持って生まれたのか。
意識も大事。
現実も大事。
物理的な言葉と時間を重ねずに、
本当にわかり合えるのだろうか。
そんな問いを突きつけられました。
どれほどの深い思いも、
どれほどの純粋な願いも、
肉体を通して、
この世界に差し出していかなければ、
現実が歪んでいくばかり。
とはいえ、現実とは、
わたしたちが何を差し出したかの
「結果」のようなもの。
だからこそ、
現実を無理に変えることではなく、
ただ、“差し出す”ことに立ち返る。
先日、
土星が牡羊座に入ったことを機に、
その能動性がさらに促されています。
わたしのネイタル土星は、牡羊座0度。
その上に、
いま運行中の土星と海王星が重なるなんて、
願っても起こりえない、
“厳しくも優しい”配置です。
だから今、これを書いている──
というわけではありません。
むしろ、
ここ数年は、あえて、
能動性が強いわたしだからこそ、
「受け身でいるべし」
と、思っていたくらいですから。
でも今は、
ただ、書きたい、でいい。
一番最初の「ハッ」とした“ふるえ”は、
今も、心の奥で息づいているのだから。
🌿 見守られている
大いなるものからの言葉は、
あらゆるものを通してやってくる。
愛されていること、
見守られていることを、実感しています。
双子座新月に寄せて。
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