わたしをほどく、いのちがひらく
2025/06/22
2025/06/22

2025年夏至に寄せて
🌿 記憶の正体
たとえば──
子どものころ、親に甘えたくて
そっと手を握った瞬間に、
思わず振り払われたとき。
実際には、親はただ
忙しかっただけなのかもしれない。
けれど、子どもはそれを
「拒絶された」と受け取ることがあります。
このとき、
どれだけ事実や真実を言い含めても、
ほんとうの癒しには届かない。
なぜなら、“真実の記憶”とは、
そのできごとを
「本人がどう心と体に刻んだか」ということだから。
その瞬間、
どんな反応が起こったのか。
何が、心に沁みこんだのか。
どう解釈して、どう意味づけたのか。
それは、言葉になるよりも先に、
身体と感情で完了してしまう。
それが、すべてです。
だからこれは、
「そう受け取った自分の問題」であり、
「自分でほどかなければ、ひらかない扉」なのです。
誰が悪いわけでもない。
自分が悪いわけでもない。
ただ、それは、起こった。
「親に拒絶された」から始まり、
「わたしは親に愛されなかった」に展開する。
このような未消化な物語に対するワークは、
有料メルマガでお伝えしています。
🌿 目の奥が、笑えなくなった日
3年前の夏至の日。
そんなことが、わたしにも起こりました。
拒絶されたわけではないのに、
心と身体がそう受け取っていました。
心のシャッターが下りていき、
感情のいくつかが、
静かに閉じていったのを覚えています。
自分の直感が、
ただの愚かな妄想に思えてきて恥ずかしくなり、
消え入りたくなるような気持ちになりました。
自分の直感に自信を持っていて、
期待値が高かった分だけショックも大きい。
もちろん、
自作自演乙と言われてもそれはしょうがない。
だけどね、
30代や40代の3年間ではなく、
この3年間を費やしたことを軽々しく、
どうのこうのと言って欲しくはないのだよ。
それから──
どんなに笑っても、
目の奥の奥が、笑えていない。
心の奥の奥が、固着している。
こんなはずじゃないのに。
わたしは、
こんなんじゃないのに。
咲き誇るような笑顔は少なくなり、
天気と友だちで、山の娘を自覚し、
地球と呼吸していた感覚が、薄れていくようで。
ナニカガチガウ
ナニカガチガウ
それは、コンマ1ほどの違和感で、
周囲にはわからないほどのもの。
ツアーを開催すれば、ミラクルは起こる。
弾けるような、笑顔の日々もある。
──けれど、自分だけは知っている。
「違和感のあるわたし」が、いることを。
「消え入りそうなわたし」が、そこにいることを。
現実がきっかけで閉じたのか。
それとも、ずっと奥にあったものが
現実をきっかけに浮上したのか。
おそらく、そのどちらも。
🌿 3年後の、夏至の日に
コンマ1の違和感は、
ボディブローのように、
いつしか大きくなっていきました。
… その後の葛藤やプロセスについては、
またいつか、必要な場で、丸ごと差し出します。
とにかく──
あれから3年後の、
同じ夏至の日の今日に、
それが、ほどけたということ。
もう一生、
背負っていくものだと思っていたのに。
するすると、
美しくほどけていきました。
───⁺──⋅ . ☽ . ⋅──⁺───
ただいま。
おかえり。
🌿 知っていても、なお、そうなる
わたしは、
心や身体のしくみについての知識がある。
心が守るために反応すること、
フリーズや麻痺がなぜ起きるのか。
それをどうほどいていくか、
喜びを回復させる方法も知っている。
内観する瞑想だって行えるし、
インナーチャイルドの観点から、
実践的に紐解くことも承知している。
けれど──それでもなお、そうなった。
わたしの中の“わたし”は、
知識や体験の届かない場所で、
「痛い」とつぶやき、
「閉じる」ことを選んだ。
だからこそ、思うのです。
人は、どれだけ知っていても、
“起きること”が起こるのだと。
そして起こることは──
いや、
わたしを壊さなかったものは、
すべて、わたしの糧になる。
🌿 ほんとうの知恵とは
自分のなかで
すべてを見つめ、受け容れてきた人は──
もう簡単に、「正義」を振りかざせなくなります。
なぜなら、
「正義」だけではほどけなかった痛みを、
知っているから。
人の心は、
事実や正当性だけでは動かない。
記憶の刻まれ方、
そこに生じた感情のゆらぎ──
その繊細な波紋に、深く揺さぶられる。
そして、起きたことを
自分の手で“ほどく”ときにこそ、
ほんとうの知恵が、静かに育っていく。
もちろん、(裏意識が)望むなら──
優れたセラピストと出会ったり、
あなたを映し出すパートナーが、
厳しい助言を手渡してくれることもあるでしょう。
けれど、どれほど助けがあったとしても、
最後の最後は、
自分の手でほどくことになるのだと思います。
🌿 わたしは、わたしを見捨てない
この知恵は、
今に至る玄花の場にふんだんに生かされ、
そして、今もなお深化し続けています。
──もちろん、目の前の人が
あまりにもドラマに巻き込まれていたら、
ズバッと指摘しますけどね。
それはもう、お約束。笑
ちなみに、
わたしは感情解放のために
「行」を使ったことはありません。
人生って、
ほんとうにいろいろあるね。
思うようにならないし、
コントロールも効かない。
それでも──
どんなにダメなわたしでも、
どんなにおろかなわたしでも、
わたしは、わたしを見捨てない。
だってこんなに面倒くさくて、
馬鹿みたいに熱量高くて一生懸命なやつ、
もう、可愛くって仕方ないんだもの。笑
それだけは、紛れもない事実。
今も、これからも。
そして、
そうやって自分を愛おしく思えるのはね、
ちゃんと、誰かのおかげさまなのです。
🌿 そして今、ジャストなう
そんなわたしは、この夏至に、
生まれて初めて吉野山に呼ばれ、お泊まりし、
金峰山寺の蔵王堂で、朝のお勤めを終えたところ。
そしてこのブログを書きました。

役行者と夏至。
特に、意味は、ない。
さあ、おうちに帰ろう。
さあ、素直に、還ろう。
🌿 ほどけたあとのこと
ほどけたあとは、
「元に戻る」のではありません。
わたしの人生においては、いつだって、
こわれ、ほどけ、そして再びひらくたびに──
かならず、前よりもよくなっている。
それが、わたしの歩いてきた道なのです。
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