わたしをほどく、いのちがひらく
2025/06/22
2025/08/25

🌿 染み込んだ記憶の、その奥に
たとえば──
子どものころ、
親に甘えたくて、そっと手を握った。
その瞬間、思わず手を振り払われたとき。
実際には、親はただ
忙しかっただけだったのかもしれない。
深い意味など、なかったのかもしれない。
けれど──
子どもはそれを「拒絶された」と、
まっすぐに受け取ることがあります。
このとき、あとからどれだけ事実を説明したとしても。
あるいは、「親も忙しかったのよ」と
真実を言い含めたとしても。
それだけでは、癒しには届かない。
なぜなら、
その人にとっての真実の記憶とは、
そのできごとを
「どう感じて、どう身体に刻んだか」だから。
その瞬間、
どんな反応が起こったのか。
何が、心に沁みこんだのか。
どう解釈して、どう意味づけたのか。
それらは、言葉になるよりも早く、
感情と身体のなかで完了してしまい、
無意識の奥に残されていく。
それが、すべてです。
──── ✵ ────
だからこれは、
「そう受け取った自分の問題」であり、
「自分でほどかなければ、ひらかない扉」です。
誰が悪いわけでもない。
わたしが悪いわけでもない。
ただ、それは、起こった。
──── ✵ ────
親に拒絶された、という受け取りから、
わたしは親に愛されなかった、に展開する。
これは、
誰にでも起こりうる、自然な心の働きです。
その「未完了の物語」に、
どのようにふれなおし、どうやってほどくのか。
そのためのワークは、
有料メルマガにて、お届けします。
🌿 違和感という、静かなサイン
3年前の夏至の日。
そんなことが、わたしにも起こりました。
拒絶されたわけではない言葉なのに、
心と身体が、その場をそう受け取っていたのです。
心のシャッターが、静かに降りていき、
いくつかの感情が、
そっと閉じていったのを覚えています。
自分の直感が、
ただのおろかな妄想に思えて恥ずかしくなり、
消え入りたくなるような気持ちになりました。
──── ✵ ────
自分の直感に、
ある程度の確信を持っていたからこそ、
その分、ショックも大きかったのだと思います。
でもね、
30代や40代の3年間とは、ちょっと違う。
この3年に費やしたものの重みは、
わたしにとって、簡単に語れるものではないのです。
あのとき、
わたしにできたのは、
この感受性のはたらきに、
ただ寄り添うことだけでした。
なぜならそれが、
わたしの表現の源泉であり、
玄花という存在そのものの、根にもなっていたから。
さらにそこから、
自分のおそれに、まなざしを向け続けました。
それは、否定でも克服でもなく──
ただ、それがここに在ることを赦すという、
わたしなりのささやかな勇気だったと思います。
それからというもの、
どんなに笑っても──
目の奥の奥が、笑えていない。
心の奥の奥が、どこか、固まっている。
こんなはずじゃないのに。
わたしは、こんなんじゃないのに。
咲き誇るような笑顔は少なくなり、
天気と友だちで、山の娘のわたしの、
地球と呼吸していた感覚が、薄れていくようで。
ナニカガチガウ
ナニカガチガウ
──── ✵ ────
それは、
コンマ1秒ほどの違和感で、
周囲にはほとんど伝わらない、小さなズレでした。
ツアーを開催すれば、ミラクルは起こる。
弾けるような笑顔の日々もある。
整体に行けば、みぞおちはふわふわで、
身体は、より研ぎ澄まされている。
──けれど、自分だけは知っている。
違和感のあるわたしが、そこにいることを。
消え入りそうなわたしが、たしかにいることを。
現実がきっかけでそうなったのか。
それとも、ずっと奥にあったものが
現実をきっかけに浮上してきたのか。
おそらく──その、どちらも。
🌿 3年の光を、いま抱きしめる
コンマ1の違和感は、
ボディブローのように、
いつしか大きくなっていきました。
… その後の葛藤やプロセスについては、
またいつか、必要な場で、まるごと差し出そうと思います。
とにかく──
あれから3年後の、
同じ夏至の日の今日に。
それが、ほどけたということ。
もう一生、
背負っていくものだと思っていたのに。
するすると、
ためらいもなく、美しくほどけていきました。
──── ✵ ────
ただいま。
おかえり。
🌿 知っていても、なお、そうなる
わたしは、
心や身体のしくみについての知識がある。
心が、
自らを守るために、
反応すること。
フリーズや麻痺が、
なぜ起きるのか。
それらが、
どんなふうに記憶と結びつき、
どうほどけていくのか。
喜びを回復する方法も、
自分をご機嫌にさせる方法も、知っている。
内観の瞑想も、
同一化というしくみも。
それらを解く理屈も、承知している。
インナーチャイルドの観点から、
実践的に解いていく手順も、身についている。
──けれど、それでもなお、そうなった。
わたしの中の“わたし”は、
知識や体験の届かない場所で、
ただ「痛い」とつぶやき、
「閉じる」ことを選んだのです。
だからこそ、今あらためて思います。
人は、どれだけ知っていても──
起きることは、起きるのだと。
──── ✵ ────
そして起こることは──
いや、
わたしを壊さなかったものは、
すべて、わたしの糧になる。
🌿 ほんとうの知恵とは
──知識を超えて、知恵が育つ場所。
自分の内で──
すべてを見つめ、受け容れてきた人は、
もう簡単に「正義」を振りかざすことはできなくなります。
なぜなら、
“正義”だけではほどけなかった痛みを、
身体の奥で知っているから。
人の心は、
事実や正当性だけでは動かない。
記憶の刻まれ方、
その瞬間に生じた感情のゆらぎ──
そうした繊細な波紋に、
心は深く、大きく揺さぶられる。
そして、起きたことを、
自分の手で“ほどく”ときにこそ、
ほんとうの知恵が、静かに育っていくのです。
もちろん、
意識の深いところでそれを望むなら──
優れたセラピストや
あなたを映し出すパートナーが、
厳しくも真摯な助言を手渡してくれることもあります。
けれど──
どれほど助けがあったとしても、
最後の最後は、自分の手でほどくことになる。
わたしは、そう思っています。
🌿 わたしは、わたしを見捨てない
この知恵は、
今に至る玄花の場にふんだんに生かされ、
そして今もなお、静かに深化し続けています。
もちろん、目の前の人が
あまりにも物語に巻き込まれていたら、
ズバッと指摘しますけどね。
それはもう、お約束。笑
人生って、ほんとうに、いろいろある。
思うようにならないし、
コントロールも効かない。
それでも、
どんなにダメなわたしでも、
どんなに不器用なわたしでも、
わたしは、わたしを見捨てない。
だって、こんなに面倒くさくて、
馬鹿みたいに熱量高くて、一生懸命なやつ
もう、可愛くって仕方ないんだもの。笑
そして、やはり、
わたしはわたしの直感を信頼している。
それは、紛れもない事実。
今も、これからも。
──── ✵ ────
そして──
そうやって自分を愛おしく思えるのは、
ちゃんと、「誰かのおかげさま」なのです。
たとえそのときは、
うまく受け取れなかったとしても。
🌿 そして今、ジャストなう
そんなわたしは、この夏至に、
生まれて初めて吉野山に呼ばれ、お泊まりし、
金峰山寺の蔵王堂で、朝のお勤めを終えたところ。
そしてこのブログを書き綴っています。

役行者と夏至。
特に、意味は、ない。
──── ✵ ────
さあ、おうちに還ろう。
さあ、わたしに還ろう。
🌿 ほどけたあとのこと
ほどけたあとは、
「元に戻る」わけではありません。
わたしの人生においては、いつだって、
こわれ、ほどけ、そして再びひらくたびに、
かならず、前よりも深く、美しくなっている。
それが、わたしの歩いている道なのです。
──── ✵ ────
(初出:2025年6月22日)
──夏至に寄せて。
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