身体は語る、わたしの想い|Love Letters
2025/07/19
2025/07/19

今回は、以下の過去記事から、
“🌿 無表情というアート” の章を、
取り上げて、掘り下げていこうと思います。
その章に、こんな一節を綴りました。
“「昔の美人画は無表情だった」
そんな一言に、ハッとしました。
江戸後期の浮世絵を含む、
いわゆる“美人画”と呼ばれるものたち。
どれも一様に、
まるで感情を閉じ込めたような顔をしている。
大きく何かを表現するでもなく、
ただ、そこに在る──
それは、なぜか。
という、そのお話に唸りました。”
──── ✵ ────
わたしは、何に「ハッ」とし、
どんなところに「唸った」のか。
その余韻をたどるように、
感受と思索を経て浮かび上がってきた視点を、
ここで少し、言葉にしてわかち合おうと思います。
とりわけ今回は、
「美しさとは何か」という問いに、
もう一歩、近づいてみようと思うのです。
「美」とは、本来とても個人的なものであり、
誰かの定義や評価で決まるものではありません。
けれどわたしたちは、
どこかで「美しくありたい」と願っています。
では──
その願いの奥には、何があるのでしょうか。
ほんとうに欲しているものは、何なのか。
──── ✵ ────
「美しい」という感覚は、
わたしの内側だけで完結するものではありません。
それはいつも、
誰か、あるいは何かとの“あいだ”に生まれる
関係的な現象でもあるのだと思います。
見る、見られる。
触れる、触れられる。
そうした、ごく繊細な相互作用の中で、
「美しい」と感じる瞬間が、そっと立ち上がってくる。
その流れを見つめ直すことは、
わたしたちの美意識そのものをもう一度、
見直していくことでもあるのかもしれません。
続きは、どうぞ本編へ。
ここからは、Love Lettersのエリアです。
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