名前の由来〜Dharma Dining
2025/04/19
2025/04/19

ある朝、
光が差し込む食卓で、
誰かのまなざしと、
一杯のお茶と、
温かな沈黙。
言葉よりも先に、
微笑みが行き交う。
ただ、それだけのことが
どうしようもなく、いとおしい。
誰かと囲む食卓で、
いま共に在ることは、
魂の憧憬がかたちになったもの。
言葉にならない何か、
見えないけれど、確かなもの――
それを「Dharma」と呼ぶのかもしれません。
こんにちは、玄花です。
毎月、静かな朝にひらかれる
「Dharma Dining(ダルマダイニング)」
という場があります。
この名前に込めた意味、
そしてこの場の奥に流れる物語について、
少しだけ、触れておきたいなと思いました。
Dharma Diningに参加の方は、
由来についてもちろんご存知ですが、
ブログに書くのは初めてです。
小さな頃から、わたしにとって
大好きな人たちと囲む「食卓」は
特別な場所でした。
韓国の人たちにとって人との交流と挨拶は、
「ご飯食べた?」
「ご飯食べていきなさい」
から始まります。
それが何時であってもです。
日常のなかで、
愛する人と食卓を囲む時間は、
もっとも自然で、もっとも豊かで、
言葉以上のものが行き交っているように思います。
その記憶の延長線上に、Dharma Diningという場があります。
Dharma Diningは、
「宇宙の法(Dharma)」と「いのちの糧」が
ひとつの食卓に在るという思いから生まれました。
ここでいう「Dining」は、
単なる食事の時間ではありません。
この場の名前の由来には、
天体からの暗示が含まれています。
西洋占星術のホロスコープにおいて、
玄花の太陽と月は魚座19度で重なり合いっています。
この度数のサビアンシンボルは――
「夕食のために用意された食卓」
それは、「最後の晩餐」を想起させる象徴です。
太陽と月が、新月のように重なり合うこの配置は、
ある時、ある場所において、引き寄せられた者同士が
ともに集い、坐ることを示唆しているように思えました。
このイメージから、
Dharma Dining(ダルマ・ダイニング)という構想が静かに立ち上がりました。
この場にはもうひとつ、霊的な背景があります。
それは、アンナプルナ女神の存在です。
インドにてご縁をいただいたこの女神は、
「食物に満たされた者」「いのちの糧(アムリタ)を与える存在」として
ヒンドゥーの神話に登場します。
彼女は、シヴァ神にこう語ったとされています:
「物質を否定してはならない。
それはすべて、いのちの糧そのものである。」
この言葉は、霊性と物質を引き裂くものではなく、
それらを融和する知恵に満ちています。
アンナプルナの台所からは、
精神と身体、祈りと日常のあいだにある境界が
やわらかに溶けてゆくような気配を感じるのです。
思い返せば、人生で一番苦しい時こそ、
台所に立ち、子どもたちのために、
丁寧にご飯を作っていました。
食卓に飛び交う「おいしい」の言葉が、
未来の生きる糧になったのは、間違いありません。
おかあさんはいつだって
我が子がお腹いっぱい満たされていたらしあわせなのです。
Dharma Dining は、そうした
神話的・霊的、日常的な背景に育まれた「食卓」です。
知識と感性、精神と身体、内と外、男と女、
タオと日常、非言語とことば――
あらゆる二元性を包括し、すべてが滋養となっていきますように。
ここで交わされるのは、答えではなく、
魂が持ち寄る、それとこれ。
そこからまた、
何かがふたたび咲いていくことを願っています。
ダルマとは存在の法、つまり、あるがままの人生だ。
人生のあるがままの環境に眼を開く意志を持つ。
人生の状況を、精神的なもの、神秘的なものとしてながめるのではなく、
本当にあるがままに見る意志をもつことだ。
― 『タントラの道』より
「Dharma Dining(ダルマダイニング)」の告知詳細はこちらより