沈黙の顔、ひらかれる身体
2025/07/16
2025/07/16

🌿 陰と陽はすべてに宿る
「太陽みたいな人ですね」
と言われることがあります。
でも、それは──
その場や、そこにいる人々が、
わたしが“そう在ること”を
許してくれているからだと思うのです。
“そう在ろう”と、思ったことはないのだもの。
もちろん、
「晴れ」だけじゃなく、「雨」の日もある。
「太陽」の日もあれば、「月」の日もある。
どんな存在にも、
どんな瞬間にも、
陰と陽はいつも、両方が息づいている。
ちなみに、太陽だってそう。
太陽のめぐみだけじゃない。
たとえば、
太陽系の全質量のうち、
99.8%が太陽に集中しています。
その数字を聞くだけでも、
“圧倒的な存在感”が伝わってくる。
けれど、その存在の強さゆえに、
近づきすぎると、焼かれてしまうのです。
🌿 人は、‘どうか’してしまうときがある
いつも笑顔で、元気ハツラツ。
──そんな姿は、たしかに素敵です。
でもね。
片側だけで生きている人なんていないの。
内側が満ちているときには、
自分の中で起こる感情の反応よりも、
はるかに大きな “わたし” という感覚があります。
だからこそ、
感情に巻き込まれることなく、ただ観ていられる。
けれど、ふとした拍子に──
その大きな “わたし” との感覚が途切れてしまい、
気づけば、感情のうねりに呑みこまれることがある。
このような状態を、
「同一化」と呼んだりしますが...
まったくもって、
「どうか(同化)してるよ」って感じです。
あはははははは──と、経験者は笑う。笑
──── ✵ ────
そんなふうに‘どうか’しながら、
ひとり静かに沈黙に沈む日もあるし、
誰かに泣きつきたくなる夜もあるでしょう。
クヨクヨと、
立ち止まってしまう瞬間も、もちろん。
でもね、
それがその時の“あるがまま”なら、
それで、いいのだと思うのです。
泣きつける誰かがいて、
安心して沈める場所があるなら──
人生は、案外、捨てたもんじゃない。
🌿 コントラストを受容する
どんな人にも、
どんな出来事にも──
陰と陽、両方の側面が、必ず備わっています。
けれど、いまのわたしの、
このちっぽけな頭と感情では、
“陽”の意味なんて見出せない時もある。
それでもなお、
陰と陽が同時に在るということは、
この世界の“構造”として疑いようのない事実。
だからまずは、
ただ静かに、その構造に気づいておくこと。
「ああ、ネガティブだけじゃないんだな」
「その反対側も、どこかに存在しているんだな」って。
もちろん──
頭ではそう理解できても、
心がそれを受け入れられない日もある。
それはそれで、かまわない。
わたしたちは聖者ではないのですから。
──── ✵ ────
けれど、そんなふうに、
陰と陽というコントラストを、
まるごと両腕に抱きしめたとき──
感情に飲みこまれていた
小さな“わたし”の輪郭が、
ふと、ほどけていくのを知っています。
“観照”という言葉に
親しみのある方がいるなら、
これはまさに、その質のこと。
それは、判断を超えて、
ただ“在る”ことを見つめる、まなざし。
🌿咲かない季節にも、意味がある
『わたしをほどく、いのちがひらく』のブログに、
「咲き誇るような笑顔は少なくなり」と、
そのように書き綴った、そんな時期がありました。
それはまさに、
小さな“わたし”の輪郭に
閉じこめられていた頃のこと。
けれど、
その輪郭が少しずつほどけていくにつれ、
「笑顔」や「表情」、
そして「顔」という存在そのものに、
あらためて向き合う流れがやってきました。
──── ✵ ────
笑えないときには、
無理に笑わなくてもいい。
まずは、そのことを──
自分自身に、そっと許してあげること。
けれどこの、
“最初の許可”こそが、
意外と難しかったりします。
「こうでなければ」
「こう見られたい」
そんな無意識の基準が、
わたしたちを静かに、
けれど確かに締めつけている。
でも、それを許した瞬間から、
何かが変わり始めていきます。
それは、
感覚かもしれないし、
行動かもしれないし、あるいは、
アイデアが、ふっと湧きあがってきたりなど。
ほんとうに静かなところで──
小さな芽のように、何かが動き出すのです。

🌿 無表情というアート
わたしにとって
「考える」とは──
頭を使って
答えをひねり出すことではなく、
自分の中に問いをそっと投げかけて、
それを意識の奥に、たゆたわせておくこと。
そうして日々を重ねるうちに、
ふとしたひとことが、
深く響いてくることがあります。
──── ✵ ────
「昔の美人画は無表情だった」
そんな一言に、ハッとしました。
江戸後期の浮世絵を含む、
いわゆる“美人画”と呼ばれるものたち。
どれも一様に、
全くの無表情であるか、
感情を大きくあらわすことはありません。
それは、なぜか──
という、そのお話に唸りました。
それが、強く深く心に残ったのは、
たゆたわせていた問いの答えでもあったから。
🌿 子どものパワークエスション
娘と末子が、
まだうんと小さかった頃のこと。
わたしがカメラを構えて、
「はい、笑ってー」
と声をかけたとき──
ふたりは真顔で、
声を揃えて、こう返してきたんです。
「なんで?」
そのときも、ハッとしました。
ちなみに、今も昔も、
ふたりとも本当によく笑う子たちです。
表情豊かというより、
むしろ、全身で笑うという感じ。
でもだからこそ、
あの「なんで?」は、
わたしの中に、深く刺さったのです。
それは、
無意識のうちに従ってきた “何か” に、
小さな光が差し込んだ瞬間でもありました。
🌿 「笑って」は、どこから来たの?
わたしたちは
思っている以上に、
「はい、笑ってー」
に象徴されるような在り方を、
無意識のうちに“カタチ”として、
カラダに染み込ませてきたのかもしれません。
カメラの前だけではなく、
日常のふるまいや、社交の場面。
人と接するときの「顔のつくり方」にも──
それは確かに、ひそやかに、でも深く影響している。
──── ✵ ────
もちろん、
笑顔を作ること自体が悪いわけではない。
その笑顔が場をやわらげ、
誰かを救うことだってある。
笑顔が、さらなる喜びを、
運んできたりすることもある。
けれど、どんなものごとにも
陰と陽の両方が備わっているように、
“笑顔”という光のようなものにも、影がある。
その両方を自分に許せた先に──
「反応」でも「役割」でもない、
ただ、内側からふっとこぼれ落ちてしまうような
ほんとうのほほえみに、出逢えるのだと思うのです。
🌿 愛される顔ではなく、愛から生まれる顔
先日の特別講座の中で、
表情をほどいていくワークを行いました。
── 玄花の場でのワークとは、
本来の“在りよう”に戻るための、
非操作的な、静かな触れ直しです──
それは、いわゆる
リラックスや脱力とは、まったく異なる次元のもの。
接客に関わる方をはじめ、
「味わったことのない体感だった」
「自分の顔に、何かが張りついていたことに気づいた」
そんな驚きや、
感動の声が寄せられました。
とりわけ女性にとっては、
深く、静かに響く内容だったように思います。
それは、ただの技法や知識や
“いい人”であることのマナーではなく、
“顔”という無意識の仮面にそっと、
光をあてるような時間だったのかもしれません。
──── ✵ ────
講座のタイトルは、
『愛されるということ』。
「愛されるために」
笑顔であり続けることを、
美徳にしてきた人も、いたことでしょう。
それは、ほんとうに
尊くて、美しい所作だと思います。
けれど、
誰も見ていないところでついた、
あの小さなため息を──
なかったことにしなくても、いいのだよ。
その瞬間にこそ、
“ほんとうのわたし”が、
立ちあらわれていたのかもしれないから。
──── ✵ ────
表情には、
その人の歴史と、
生きのびるための知恵が、刻まれています。
笑えない日もある。
崩せない笑顔もある。
だから単純に、
こうしたらいい、
こうしたら良くないと、
言い切れるものではありません。
けれど、問いかけることはできる。
──これからのわたしは、
どう在りたいのだろう?
その問いの先に、
“愛されるための顔”ではなく、
“愛から生まれる顔”が、
ふっと、立ちあがってくるのだと思うのです。
咲かない時期があったからこそ、
「笑顔咲く」ということの奥行きが、
幾重にも、深まっていきました。
ムッとする日もある。
自然な無表情もある。
それらを、まるごと許しながら──
意図や選択を超えて、
内側からこぼれ落ちる笑顔もまた、
わたしという存在の魅力のひとつとして、
大切にしていきましょうね。
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