ハイパー感受性というギフト
2025/07/14
2025/07/15

感受性を“よわさ”ではなく、
世界と深くつながる“ちから”として。
───⁺──⋅ . ☽ . ⋅──⁺───
🌿 波動測定と、思わぬ同情
この仕事を始めて間もない頃、
ある波動研究所による「波動と脳波」の測定を、
していただいたことがありました。
たしか──
素の状態と、天然石を持った時の波動の違いを見る
という趣旨だったと記憶しています。
そもそも「波動」とは何か、
という問いはひとまず脇へ置いて、話を進めます。
──とにかく測定がはじまる。
何十項目にわたって、
詳細に数値が測られていきます。
その項目の全貌はわからないまま、
ただ──
会話の端々から伝わってきたのは、
- どの値も、総じて最高値に近い
- なかには機器の上限値を振り切る項目もある
ということ。
しだいに、
場の空気が変わっていくのを感じました。
その場にいた方々が、
ふと静かになったのです。
あとから聞いた話によると──
彼らは心の中で、
こんなふうに呟いていたのだそうです。
「ああ……これは生きづらいでしょうに」
まさか、
そんなふうに同情されていたとは、
わたし自身は露知らず。笑
🌿 波動が高いことの実際
「波動を高めたい」
という言葉をよく耳にします。
けれど、波動が高いということは、
必ずしもポジティブな状態とは限りません。
なぜなら、
それは「生きづらさ」の裏返しでもある。
つまり、
本来は感じなくてもいいようなことまで、
あますことなく感じ取ってしまう。
その結果、
傷つきやすく、落ち込みやすく、
ときに鬱的な深みへと沈んでいってしまう。
そのことを、
測定してくださった方が
その場で、教えてくださいました。
🌿 予測不能の、ひらききった感受性
さらに測定は進み、
再び、場の空気が変わります。
「鬱傾向」や「落ち込みやすさ」といった項目は
相変わらず高い値であるのは変わらない。
──しかしそれに加えて、
「愛」、「癒し」、「お気楽さ」
「楽天的である」といった項目までが、
軒並みMAXの値を示していたのです。
それを見た一同が、ついに笑い出す。
いや、むしろ──、大爆笑。
そしてしみじみと、こう言われました。
「波動が高い人は多いけれど、
ここまで両極を同時に振り切っている人は
見たことがありません……いや、正直、初めてです」
その言葉に、わたしも笑ってしまいました。
たしかに、
わたしはたいてい、楽天的に見られます。
けれどその裏には、
ひらききった感受性が潜んでいる。
それがあるからこそ、
このお仕事ができるのではないかと思っています。
この出来事──
当時、リアルタイムでブログに綴ったので、
覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね。
🌿 感受性という、危うい贈りもの
行き過ぎた感受性の状態を、
わたしは、「ハイパー感受性」と呼んでいます。
「もらいやすい人」「打たれ弱い人」
そんなふうに言われる人たちも、
もしかしたらこの領域にいるのかもしれません。
ハイパー感受性がオンになった状態を、
玄花的な言い回しでたとえるとするなら、
真っ裸で、
真夜中のジャングルの森の中に
放り出された状態。
何が襲ってくるかわからない、夜の密林。
そんな場所に、
無防備に立っているような感覚です。
その世界で耳を澄ませば、
数キロ先の微かな物音さえ拾えてしまうかも!?
──そう、360度に知覚過敏。笑
ハイパー感受性は、
知覚の祝福でありながら、
時に、過剰な負担でもあるのです。
🌿 娘が描いた、わたしの感受性
この“感受性の異常値”を、
誰よりも早く見抜いたのは、わたしの娘でした。
ある日、娘は「母の感受性」を
図解にして見せてくれたのです。
それは、シンプルながら、
感受性のなんたるかが明晰に描かれ、
わたしの在り方が、まるっと映し出されていました。
詳細 of 詳細。
一目見て「これ、わたしだ」と、大爆笑。
……いや、実際には、あまり笑えないのです。
なぜなら──
ハイパー感受性がフルスロットルの
わたしの状態を知っている子どもたちは、
ある意味、
“その影響をもろに受けてきた側”ですから。笑
しかし、子どもたちは、
それにまったく流されないのがすごいところ。
そのまなざしに、見透かされながらも、
見守られていたのだと、今では思えるのです。
あの図は、今もわたしの宝物です。
🌿 自分の感受性くらい
往々にして、わたしは
楽天的な人間だと思われています。
たしかにその側面は、
わたしの「デフォルト」として自覚があります。
さらに言えば──
なんでも自分の力で解決できて、
なんでも自力でねじ伏せられると、
そんなふうにすら見られています。
それも嘘ではないので、
しかたないなぁと、思うしかなく。
けれど、だからこそ。
真逆を静かに併せ持つわたしは、こう思うのです。
──自分の感受性は、
自分で守らなければならない、と。
ここで伝えたいことはただ一つ。
詩人・茨木のりこさんの言葉を借ります。
自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ
繊細、とか
敏感、とか
神経質、とか。
そんな言葉では、
言い尽くせないものがある。
そういう人は往々にして、
知って欲しい、
守って欲しい、
わかって欲しい、
抱きしめて欲しい。
そう思っているでしょう。
──けれど、
それを“アテ”にして生きていると、
いつしか、自分の心が、摩耗して死んでしまうの。
だからこそ、
"自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ”
この一文が、
ときに喝であり、
ときに祈りのように響くのです。
これは決して、ただの精神論ではなくて。
この時代をしなやかに生きるための、
とても現実的な知恵でもあるのだと思うのです。
めまぐるしく変わる世界、
外から押し寄せる不安や混乱のなかで、
感受性を守るということは、
わたしたち自身の“生”を守ることでもある。
✵ 参考ブログ ✵
わたしをほどく、いのちがひらく
🌿 波動こぼれ話
そうそう、当時、
こんな話も教えてもらいました。
妊婦は、総じて波動が高い。
もれなく、例外なく。
そのお話を聞いた時に、
宇宙の神秘というか、
宇宙に守られているというか、
「はからい」を感じたのを覚えています。
思い返せば──
初めて妊娠し、出産を終えた直後、
わたしの内側にはこんな野生が宿っていました。
ガルルルルルルゥゥゥ……
まさにライオンのメス。
熊だって倒せそうな勢い。笑
ただでさえ、
感受性のアンテナが全開なのに。
さらに本能がひらき、野生が目覚め、
感受性がまたひとつ深くひらいていく。
それはもう、
ハイパー感受性の極み。
これは、
わたしにとっての大切なリソース。
いまでも、必要なときには、
その感覚へと立ち返ることができるのです。
──── ✵ ────
体験的にも感じるのですが。
受精直後から、
出産後のある時期まで、
女性の身体は、確実に
「ハイパー感受性の時期」に入っていると思うのです。
だからこそ。
パートナーの方にお伝えしたいのは...
その時期に、
伴侶から投げかけられた何気ない一言は、
女性の心に、長く、ずっと、残ってしまうということ。
なぜなら、
あなたのことが大好きだから──
あなたが思う以上に、深く傷ついてしまうのです。
だからどうか、
その時期の女性には、特に最高の気遣いを。
……とはいえ、
おそらくどんな言葉が地雷になるのかなんて、
たいていの場合、本人にもわからない。笑
だから愛する人との関係を
継続したいなら、「ごめんね」でいこう。
あなたのやさしいひと言が、
感受性に宿った新しいいのちを、
あたたかく包んでくれますからね。
必ず、ね。
🌿 タイトロープ
ハイパー感受性と、ハイパー楽天気質。
超内向的と超外向的。
この両極の“あわい”を──
絹糸のような細い綱を渡るようにして、
わたしは、これまでの人生を歩いてきました。
バランスを崩せば、
たちまち心が摩耗してしまう。
でも、それでも、
なんとかここまでやってこられた。
そう思えるのは、
人間という存在の底力を、わたしが信じているから。
🌿 共に、“ふれ直す”ということ
このハイパー感受性はときに──
その人の奥にある、
葬り去られた、微かな“けはい”に反応する。
それは、
受精卵から細胞分裂を経て、胎児となり、
およそ6歳、7歳のころまでに形づくられる、
人間としての「土台」の部分。
わたしのまなざしは、
いつも、なぜか、相手のそこへ
引き寄せられてしまうのです。
──── ✵ ────
脆く、儚い、その“けはい”に、
もう一度ふれ直すということ。
それは、
「身体に残された記憶」や「内なるこども」との、
静かで、敬意に満ちた再会でもあります。
ふれ直しは、
しなければならないものではありません。
一生ふれないままでも、
誰にも見せないままでも、
その人の人生は、きっと尊い。
けれど──
この世に生まれたとき、
わたしたちの奥深くに沈んだ
“ポテンシャル” と呼ばれるもの。
それはきっと、
その “記憶” や “ふるえ” のさらに奥に、
ひっそりと息づいているのです。
だからこそ、
その部分にふれ直すことは、
どこかの段階で、そっと訪れる。
なぜなら──
あの時期につくられた
「思いぐせ」や「感じぐせ」こそが、
いまのわたしたちの、
選択や言葉や行動の“土台”になっているから。
そこを省いてしまえば、
現実はただ「上書き」されるだけで、
深くは変わっていかない。
だから、
“ふれ直し”は、
ショートカットできないのです。
それは、ただの癒しではなく、
生きているということの、根っこへの回帰。
このいのちを、
より純度高く、生ききるための歩みなのです。
そこに、自ら、
“ふれ直したい”と願う人たちが、
グループワークの場に、自然と集まってきます。
玄花の場において、ワークとは、
本来の在りように戻るための、
非操作的な触れ直しのことです。
──── ✵ ────
たしかに、
「自分の感受性くらい自分で守れ」
ということは、大前提としてある。
けれど同時に、わたしたちは、
自分ひとりのためだけに
生まれてきたわけではない。
この世界にやってきたということは、
人とふれあい、響きあい、確かめ合い、
ときにその、 “けはい” をわかち合うためでも
あるのだと思うのです。
そしてそれを──
ほんとうに分かちあえる誰かに差し出せたとき、
わたしたちの内なるポテンシャルは、
新しいかたちで、またひとつ、ひらいていく。
あなたが、そこにふれ直すとき。
きっと、あなたは、ひとりではないでしょう。
それが、わたしの切なる、祈りです。
そしてその祈りは、いつも、
あなたの奥の“けはい”へとまなざしを向けています。
感受性は、
ただの脆さではない。
とても静かで、精妙で、
でも、たしかな “チカラ” なのです。
言葉を引用させていただいた、
詩人・茨木のりこさんの詩です。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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