玄花繚乱
2025/07/11
2025/07/15

ひらいて、ほどけて、愛すること。
🌿 フラワーバスと、わたしの現在地
パスポートとクレジットカード、
そしてiPhoneさえあれば、
とりあえず、どこへでも行ける。
たとえそこが、初めての場所でも、
たいがい、どうにかなるものです。
明日の特別講座「愛されるということ」を前に、
今日はこんな場所で、
わたし自身を、とろけるように甘やかしてきました。
物事はすべて、
収まるべきところへ、自然に収まっていく。
旅に行こうと思えただけ、
心に余裕が生まれてきた。
とにかく今は──
頭、からっぽ。
心、ゆるゆる。
さて、ここはどこでしょう?
🌿「自分を愛する」って、どういうこと?
「わかっています。
まずは自分を愛することから、ですよね」
──そんなふうに言う人は、たしかに多い。
けれど、そこから一歩踏み込んで、
「たとえば、どんなふうに?」と尋ねると
けれど、「たとえば、どうやって?」 と尋ねると、
戸惑いの沈黙が返ってくる。
「そんなこと、聞かれると思わなかった」
という、怪訝な表情とともに。
わたしたちは、
“自分を愛することが大切”だと、
頭では理解しているつもりでいる。
けれど──
心と身体が、
その言葉に追いついていない。
だから、実際の行動に結びつかない。
「自分を愛する」ということには、
全員共通の方法論やマニュアルがない。
その人だけの“正解”しか、存在しない。
たとえば、誰かに尋ねて、
薦められた方法を試してみたとしても──
その選択が、
“本当のわたし”に響いていなければ、
どこか、空回りする。
そしてその「本当のわたし」だって、
そう簡単に見つかるものではないのです。
なぜなら、多くの場合──
「見たくなかったわたし」
「向き合いたくなかった感情」
脳の奥深くコアの、
さらに奥に沈んでいた、
“見たくなかったもの”こそが、
ほんとうの意味での
“ありのままのわたし”だったりするから。
🌿 ‘ほんとうのわたし’は、封じていた感情の奥に潜んでいる
たとえば、夏至のブログ
「わたしをほどく、いのちがひらく」で綴ったように、
“消え入りそうなわたし”
“違和感のあるわたし”
そんな、輪郭すらあやふやな存在こそ、
わたしが──玄花という名のもとに、
出会いなおすべき “ほんとうのわたし”
だったのだと思うのです。
心も身体も、大いに抵抗しました。
それがほどけて、受容へと至るまでには、
時間も、涙も、それなりに、必要でした。
けれど──いつだったかな。
伝授していただいた教えの中に、
こんな言葉があったのです。
“それをやり込んでいくと、脳の中のコアな、とある部分に、自分が向き合いたくないものがあり、そういったものが揺さぶられて、表に出てくるようになる”
この言葉を、わたしは──
一番苦しいときに、思い出しました。
自分の中にある、
見たくない感情に呑まれそうになって、
「こんな自分ではダメだ」と、
心が潰れそうになったときに。
「向き合いたくないもの」に出会うことは、
終わりではなく、むしろ始まりなのだと。
そう思えたことが、ひとつの救いでした。
思えば、この言葉も、
自分に向き合う夏至のきっかけも、
出会いも出来事もすべて──
気づかぬところで全方位から、
ひとつの流れをつくってくれ、
守られていたのだと思っています。
誰かの意図や、
わたしの願いとは無関係に。
けれど、たしかにそこには
“見えない働き”がありました。
──── ✵ ────
この“向き合いたくないもの”について。
「弱さ」や「未熟」といった言葉で
軽々しく括ってしまうことはできません。
いずれ、あらためて
綴ることになるでしょう。
なぜなら、「弱さ」と名づけた瞬間に──
人はそれを、
“すでに知っている自己像”として
処理してしまいますから。
「わたしが弱いのは、わかっています」って。
でも──あれらは、
“わかっているつもり”の、その先にあるものです。
──── ✵ ────
それらは──
“自分で気づこう”と思って、
見つけられるようなものではありません。
そもそも、通常の意識では、
「向き合いたくないものがある」ことすら、
気づかないまま、生きていくことができてしまう。
わたしの内に潜んでいた、無数の側面。
抑圧し、迂回してきた、感情の数々。
それらはただ封印されていたのではなく、
“存在しないこと”にすら、されていました。
それでも──
その先へ行こうとしているからこそ、
出会うべくして、出会っていく。
たとえ頭ではわかっていても、
それはやっぱり、苦しいプロセス。
そうした“出会うべきものたち”と、
ひとつずつ、ひとつずつ、
丁寧に、向き合っていきました。
出会えた「気」になることは、簡単にできる。
でも、ほんとうに出会うというのは──
こちらの都合ではどうにもできない、
ある種の「必然のタイミング」でやってくる。
そのこと自体が、
今ではひとつのギフトだったと感じています。
──── ✵ ────
この世界という“場”には、
人と人、人と出来事のあいだに、
ふと、生まれてしまう“働き”がある。
それを、「はからい」というのかもしれません。
そして、いまのわたしは、
確信と共に、こう思っています。
起こることは、いつだって
── 絶大なるわたしの味方なのです、と。
🌿 “甘やかす”という実践
そして今、
フラワーバスの中に身をゆだねながら、
あらためてしみじみと感じ入るのです。
“わたしを愛する”って、
誰かの言葉や方法をなぞることじゃ
ないのだよなぁ、と。
それよりも、いま、ここにある
このやわらかさを、
そっと世界に差し出したい──
そんな気持ちが、
湯気とともにふわりと立ちのぼってくる。
あ、明日は──
特別講座「愛されるということ」だわ。
……なんて、ちょうどいい。笑
これまでも、
このやわらかい部分を、
相当にさらけ出し、
差し出してきたからこそ、
あれもできて、これもできて、そして──
みなさんに信頼をいただいているのですけど。
でも、まだまだ奥があるのか、みたいなね。笑
──── ✵ ────
わたしは、ごくたま〜にだけれど、
自宅でも“フラワーバス”を行います。
味気のないご自宅の浴室を、
自力でどうにか、いい感じに整えるのです。
IKEAで購入した
小さなガラスの蝋燭立てをいくつも並べて。
あかりを灯して、光と影を遊ばせながら。
大人ですし、イケる口ですから、
シャンパンなんて用意してみたり。
(カヴァとか、ブリュットでも◎)
わたし世代の方だったら、
ここに思わず「苺」を添えたくなるでしょう。
まるで、プリティ・ウーマンみたいにね。

🌿 セラピーよりも“効く”もの
そうそう、あの有名な──
ジュリア・ロバーツ演じるビビアンのセリフ。
“Did I mention, my leg is 44 inches from hip to toe? So basically we are talking about 88 inches of therapy wrapped around you…”
私の足は、
お尻からつま先まで111センチあるの。だから222センチで、
包み込むセラピーをしてあげてるのよ。
──つまり、
彼女の脚がまるごと“癒し”になるってこと。
おそらく、
腸骨あたりから床までの長さのこと。
その長ーーーい脚で、
後ろからハグされたエド(リチャード・ギア)は、
心の芯まで癒されてしまいます。
ある意味、“甘やかされた”わけです。
いわゆる一般的なセラピーよりも、
こういうことのほうが、“効く”ときがある。
そういう“ふれあい”が、人を癒すこともある。
──── ✵ ────
たとえば、わたしがどんなに
「エネルギーがすごい」と言われたとしても。
母に対する父の献身には、到底かなわない。
思い返してみても、
母にヒーリングをしたことは、たぶん、ない。
母には、父の存在そのものが、“効く”のです。
そしてもちろん、母の存在が、
父の“生きるチカラ”として効いているのは間違いない。
父はいろいろと口うるさいけれど、
それはただ──
愛するという表現が、
不器用なだけなのを知っている。
🌿 愛し愛され、生きるということ
わたしの原風景にある、父方の祖父母。
小学生だったわたしには、
仲が良いのか悪いのか、
よくわからなかったけれど、
いつも、いつも一緒にいて
まさに、“つがい”でした。
祖母が亡くなって、
ちょうど一年後の命日に、
祖父も息を引き取りました。
まったく同じ日に。
だから、ふたり一緒に法事ができるの。
ナチュラルに「すごい」と思った。
こんなことが、ほんとうにあるのだなぁって。
──── ✵ ────
祖母を看取ったあとの祖父は、
ほんとうに、寂しそうでした。
こんなふうに寂しい思いを、
祖母にはさせたくなかったのかな。
だから──
祖母を先に逝かせたのかもしれない。
なんだか、
祖父の矜持を見た気がしました。
それが、わたしにとっての、
「愛し愛されること」の原風景です。
──── ✵ ────
父と母を見ていても、
しみじみ思うのです。
「相手を愛することは、自分を愛すること」
だから──
ふたりが同じ日に旅立ったとしても、
ぜんぜん、不思議じゃない。
そして、「一心同体」って、
ほんとうにあるのかもしれない。
そんなことを思えたのも、
父と母の在り方のおかげなのです。
人間てすごいね。
これは、有料メルマガに綴ろうかな。

🌿 自分を愛することは、とてもシンプル
「自分を愛すること」だって、
突き詰めて考えれば、
ほんとはすごくシンプルなこと。
生活習慣をちゃんとするとか、
きちんと眠って、からだを休めるとか。
そんな、小さな積み重ねからなのです。
口にするものを選ぶことも、
ほんの少し背筋を伸ばすことも、
呼吸の浅さに気づいて深く息を吐くことも。
そうした些細なひとつひとつが、
“わたし”という存在を丁寧に扱っている、
という実感につながっていく。
──── ✵ ────
わたしの核にあるものも、
すこぶるシンプルなこと。
誰に何を勧められようと、
最後に「やる」と決めたわたしの責任。
何を選ぶのかだって、
最後に「決めた」わたしの責任。
それらの責任を取ることと、
わたしがわたしにした約束を、ちゃんと守ること。
ここで言う“責任”というのは──
自分にすべてを課すことでも、
重荷として抱えることでもありません。
むしろそれは、
“わたしの人生を、わたしの手に取り戻すこと”
誰の“せい”にもせず、
どんな出来事にも「選んだわたし」がいることを知る。
その選択に、
静かに立ち会うこと、同意すること。
それが、わたしにとっての
「自分を愛すること」の、
揺るぎない土台なのだと思います。
だからこそ──
自分が「やる」と決めて始めたものを、
簡単にやめるはずがないのです。
──── ✵ ────
さて──
ビビアンには及びませんが、
わたしも、腸骨からつま先まで、
42インチは間違いなくあります。
そんな小さな自慢をしながら、
今宵のブログは、ご機嫌に幕を閉じます。
おやすみなさい。
どうか、あなたの夜が、やわらかくありますように。
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