稽古という祈り、帰還への道
2025/07/11
2025/07/15

ふれることから、すべてが始まる
🌿 「帰還」の、もうひとつの物語
先日お届けした、
蟹座新月の遠隔ワーク──「帰還」。
“わたし”という個の輪郭をそっとほどき、
“わたしたち”という場へと歩き出す。
そんな意志とともに──
わたしの奥深くに眠っていた“記憶の波”が、
この身を通して、ようやくほどけはじめた、夏至。
そこから、蟹座新月へ。
その流れのなかで、
ある問いが浮かびあがってきました。
──「還る」とは、どういうことだろう?
ほどなくして、
その問いに呼応するように現れたのが、
「稽古」という名の、もうひとつの扉でした。
──── ✵ ────
「帰還」が、
“ひとりでがんばるわたし”をほどいていく道だったとしたら、
「稽古」とは──
“誰かと共に歩くわたし”が、
日々の関係性のなかで、いのちをひらいてゆく営み。
‘いのち’と‘カラダ’を携えて、
この地上に降りてきた理由を、
あらためて、問い直してみよう。
──── ✵ ────
このブログは、
「帰還」という祈りの余韻のなかで生まれた、
ひとつのアナザーストーリーです。
“稽古”という言葉には、
いくつものレイヤーが重なっています。
いまのあなたがいる場所で、
ふさわしいカタチで受け取ってみてください。
🌿 稽古とは、いのちにふれること
稽古という言葉には、
「古(いにしえ)を稽(かんが)える」
すなわち、
先人の知恵や天地の理(ことわり)を
カラダを通して受け取るという意味が含まれています。
稽古とは、
ただ繰り返すことではありません。
くり返しのなかで、
カラダを通して、より深く“観じ”、
内なる響きを、そっと確かめていくこと。
型をなぞるのではなく、
わたしという“いのち”を媒介に、
天と地とを結び直していくような、静かな実践。
何かを「できるようになる」ためではなく、
わたしという存在そのものが、
透明になってゆくための道。
稽古とは、
祈りのような日常であり、
感応する力を、もう一度取り戻すための歩み。
そう、わたしは感じています。
🌿 稽古は、ひとりでは開かれない
たしかに、稽古とは──
自分自身と向き合う営みです。
たとえば、教わったことを、
自分のカラダで探究することなく、
「これでいいですか?」と
すぐに“答え”を求めてしまうとしたら──
そこには、何かが欠けている。
その“違和感”には、気づいていたい。
けれど、それでもやはり、
わたしは思うのです。
稽古は、一人ではできない。
自然も、風も、沈黙も、
それ自体が稽古の素材になり得る。
けれど、
肉体をもった“誰か”との
現実的な関わりを通してしか見えない真実がある。
──── ✵ ────
たとえば、
・ふれる/拒まれる
・見つめる/見つめ返される
・誤解される/それでもなお差し出す
そうしたすべての交差のなかに、
わたしたちの“霊性の現在地”が浮かびあがってくる。
関係性の問題が起きたとき、
“片方だけのせい”など、あり得ません。
それは物理学で言えば「二体問題」(笑)。
つまり、すべては“相互作用”なのです。
ただし──
それを“自分ひとりの課題”として引き受け、
内側からほどいていくことは、できるのです。
霊的成長とは、
美しく整えられた理想像に近づくことではない。
不器用なまま、
関係性のなかで変容していくことを許すこと。
玄花の場における“稽古”とは──
人としての弱さや揺らぎを抱えたまま、
それでもなお、
誰かと共に在ることを選びつづける実践。
そう、わたしは考えています。
──── ✵ ────
ちなみに──
わたしは、
太極拳や中国武術、フラ、ベリーダンス、バレエ……
そうした「型」を持つ学びを
習いごととして続けたことは、実はありません。
見学したり、
体験したことはあるけれど、
正式に“修めた”わけではないのです。
だからこの文章は、
わたし自身がふれてきた“稽古”という在り方を、
わたしの言葉で綴っているものです。
そして、
稽古というものを
大切にされている方々の姿から──
わたしは、
多くのインスピレーションを
受け取らせていただいています。

🌿 肉体をもって生まれてきた意味
道教の女仙の中には、
高次の存在や仙人たちと
稽古を交わしていた者もいます。
たしかに、
見えない存在と感応し、
内的世界の中で深まっていく稽古も、あるのでしょう。
けれど──
玄花の場が大切にしているのは、
肉体を持つことの意味。
そして、
その意味を生きることでひらかれていく、
肉体を持つことの醍醐味。
わたしの中には、昔から──
「肉体を持つことの意味とは?」
「肉体を持った歓びや悦びとは?」
そんな問いが、
静かに横たわっていました。
はるか昔。
ずっと前から。
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ふれること。
みること。
声を発すること。
息を通わせること。
この“肉体”を持ったわたしたちが、
いのちのままに関わり合い、学び合う。
それこそが、
この地上に生まれてきた意味であり、
稽古の真髄なのだと思うのです。
霊的な真理は、
ただ静かに内観するだけでは見えてこない。
いのちの真実は、
誰かとの実際的な触れ合いの中で──
関わり合いのなかでこそ、
露(あら)わになっていく。
🌿 行為の奥に、祈りが宿る
たとえば──
ノーベル賞を受賞した多くの科学者たちは、
その受賞そのものを「目的」として
研究に取り組んでいたわけではないでしょう。
もっと大きな問い、
もっと深い驚きや好奇心、
そして、世界への誠実さに導かれながら、
日々の実験と検証を、ただ、重ねていった。
そのプロセスのなかで──
「ノーベル賞に値する何か」が
結果として、生まれていっただけ。
霊的な稽古も、
きっと、それと同じなのだと思うのです。
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数日前、
感じて応じるはたらきの層の中で、
ただ身体が動くにまかせていました。
すると、ある瞬間──
「ああ、今どこかで、誰かが癒されている」
そう、強烈に、強烈に、強烈に、感じたのです。
理由はわかりません。
ただ、ただ、至福でした。
至福を「感じた」のではなく
──至福そのものだった。
わたしにとって稽古とは、
やはり祈りであり、この身を捧げる行為なのです。
そのとき──
ある記憶が、ふいに
フラッシュバックしました。
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8年ほど前、
インド北部・ラダック地方の
リトリートツアーを開催していました。
標高約4,000メートル。
そこには、空を背にして立つ
巨大な弥勒菩薩像がありました。
その足元から見下ろすと──
チベット仏教の寺院が、
小さく眼下に広がっていて、
その片隅で僧たちが、踊りか舞のような動きを
練習していたのが見えました。
その場にいた人たち以外、
世界の誰も、その練習を知らない。
けれど──
なぜか、そのエネルギーが、
世界へと伝播していると確信したのです。
意味のある、結果や評価を求めているのではなく、
彼らはただ、
自分のやるべきことを、粛々とやっていた。
なのに、それが世界の何かを動かしている。

🌿 稽古という名の、祈りのカタチ
わたしたちは、いまここに、
肉体をもって生きている。
ならばこのカラダを通して、
見える世界と見えない世界とを結びなおすこと。
そして、物理的な関係性のなかで、
感応のチカラを取り戻していくこと。
それこそが、
「稽古」なのだと思うのです。
そして、そのような稽古と共にあるもの。
それが、“行”という営みではないでしょうか。
──── ✵ ────
ちょうど今、蟹座木星の時期。
木星とは、
占星術において「拡大と恩寵」の象徴です。
宇宙には「良い/悪い」はないため、
あなたが意識を向けるすべてが拡大していく。
“行”にもそんな性質がある。
「やり込む」という言葉がありますが、
ただやり込むのでは、
未統合なままの“わたし”を、
そのまま大きくしてしまうこともある。
だからこそ、稽古を通して、
思考や知性以前に触れにいく。
そして、さらに、
日常そのものが稽古であるならば、
それは、とても楽しいことだと思うのです。
──── ✵ ────
わたしの仕事机の横に、
大きな内経図の掛け軸がかけられています。
ちょうど目線の位置では、
二人の童子と童女が、水車を回している。
それは、まるで──
肉体を持ったまま昇天していくための
お稽古を楽しんでいるようにも見える。
そこにあるのは、
「稽古」というかたちを超えた、
阿吽の呼吸による、
“生きるというお稽古ごと”。
繰り返し、繰り返し、
歩み、巡り、廻り、
からくりをかき廻しながら、
縁あってここで出会い、
輪廻を、超えていこうとしているように。
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木星蟹座入りに寄せて書いた、
ブログ「リアルな愛の時間へ」に、
「リア充」や「おうちでイチャイチャ」なんて
言葉を添えましたね。
もしかすると、
ここに記したような営みが、
あなたにとっての“それ”になり得るのかもしれません。
🌿 この相手、この感応、この稽古
先日、
稽古の醍醐味をまるごと味わうような、
そんな素敵な体験がありました。
あらためて──
じっくりと、丁寧に、
カラダに触れるということが、
どれほどすごいことか。
そして──
じっくりと、丁寧に、
カラダに触れてもらうということが、
どれほどすごいことか。
意識だけで、すべてがわかるほど
わたしはまだ、何もわかっていない。
けれど、カラダを通すと、
その反応は、まるで別の言語のように雄弁。
相手が変われば、反応が変わる。
相手が変われば、もたらされるものもまるで違う。
わたしはときどき──
目の前の相手に思わず、
手が伸びてしまうことがあります。
言葉では受け取れない何かを、
ふれることで確かめようとしているのかもしれません。
それは、わたしの意思を超えて、
この手を動かしているのだと思うのです。
だからこそ、知っている。
「この相手でなければ」
という感応が、たしかにある。
“この相手”であることには、
きっと、理由があるのです。
それは、やる気や努力や意志のような力学では
到底、まかなえない、何か。
わたしたちの意図を超えたところで、
巡り合わせ、ふれ合わせてくれるもの。
──それを、運命と呼ぶのかもしれません。
──── ✵ ────
なにはともあれ、
「わたしの道」を歩きつづけること。
「何を達成するか」の前に、
わたしは誰に向かって、
どのように捧げているのか。
その“関係性へのコミットメント”の深さが、
わたしの道の質を、決めていくのです。
そして、わたしは、ずぅっと前から──
静けさのなかで、その関係に身を委ねています。

もはやこれは、
「稽古」についてのブログなのか、なんなのか。
──まあ、それはきっと、
わたしの持つ魚座の月のしわざです。笑
だから、玄花のブログは、
こういうスタイルでしか綴れない。
わたしの中には、
いろんな思いがありますが、
それを、全部は書きませんし、書けません。
いくら文字数を費やしても、
それが玄花のすべてではないから。
そして、これもまた、
リアルに触れ合える場でなければ
差し出せないものでもあるのだから。
──それでも、
書かなければ伝わらないことがある。
だから、いま、言葉にしているのです。
言語化された時点で、きっともう、
わたしのカラダは、その先に行っているはず。
そして、
玄花の場で出会うみなさんは、
わたしにとっての稽古仲間ですね。
「それ、稽古って言わないのでは?」
そんなふうに言われたって……
そんなの知らないでございますわ。笑
いつも、ほんとうに、
ありがとうございます。
とびきりの、
愛と感謝を込めて♡
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