稽古という祈り、帰還への道
2025/06/30

ふれることから、すべてが始まる
🌿 「帰還」の、もうひとつの物語
先日お届けした、
蟹座新月の遠隔ワーク──「帰還」。
“わたし”という個の輪郭をそっとほどき、
“わたしたち”という場へと歩き出す。
そんな意志とともに──
わたしの奥深くに眠っていた記憶の波が、
この身を通して、ようやくほどけはじめた、夏至。
そこから、蟹座新月へ。
その流れのなかで、
ある問いが浮かびあがってきました。
── 還るとは、どういうことだろう?
ほどなくして、
その問いに呼応するように現れたのが、
「稽古」という名の、もうひとつの扉でした。
──── ✵ ────
「帰還」が、
ひとりでがんばる“わたし”をほどいていく道だとしたら、
稽古とは──誰かと共に歩くわたしが、
日々の関係性のなかで、いのちをひらいてゆく営み。
いのちとカラダを携えて、
この地上に降りてきた理由を、
あらためて、問い直してみよう。
──── ✵ ────
このブログは、
「帰還」という祈りの余韻のなかで生まれた、
ひとつのアナザーストーリーです。
稽古という言葉には、
いくつものレイヤーが重なっています。
いまのあなたがいる場所で、
ふさわしいカタチで受け取ってみてください。
🌿 稽古とは、いのちにふれること
稽古という言葉には、
先人の知恵や天地の理(ことわり)を
カラダを通して受け取るという意味が含まれています。
稽古とは、ただ繰り返すことではありません。
くり返しのなかで、
カラダを通して、より深く観じ、
内なる響きを、そっと確かめていくこと。
型をなぞるのではなく、
わたしといういのちを媒介に、
天と地とを結び直していくような、静かな実践です。
何かを「できるようになる」ためではなく、
わたしという存在そのものが、
透明になってゆくための道。
稽古とは、祈りのような日常であり、
感応する力を、もう一度取り戻すための歩み。
──そう、わたしは感じています。
🌿 稽古は、ひとりでは開かれない
たしかに、稽古とは──
自分自身と向き合う営みです。
たとえば、教わったことを、
自分のカラダで探究することなく、
「これでいいですか?」と
すぐに“答え”を求めてしまうとしたら──
そこには、何かが欠けている。
その違和感には、気づいていたい。
──── ✵ ────
けれど、それでもやはり、
わたしは思うのです。
稽古は、一人ではできない。
自然も、風も、沈黙も、
それ自体が稽古の素材になり得る。
けれど、肉体をもった誰かとの
現実的な関わりを通してしか見えない真実が、ある。
──── ✵ ────
たとえば、
・ふれる/拒まれる
・見つめる/見つめ返される
・誤解される/それでもなお差し出す
そうしたすべての交差のなかに、
わたしたちの霊性の現在地が、浮かびあがる。
関係性の問題が起きたとき、
片方だけのせい、などあり得ません。
それは物理学で言えば「二体問題」(笑)。
つまり、すべては“相互作用”なのです。
ただし──
それを自分ひとりの課題として引き受け、
内側からほどいていくことは、できるはずです。
──── ✵ ────
霊的成長とは、
美しく整えられた理想像に近づくことではなく、
不器用なまま、
関係性のなかで変容していくことを許すこと。
玄花にとっての稽古とは──
人としての弱さや揺らぎを抱えたまま、
それでもなお、
あなたと共に在ることを選びつづける実践。
──そう、わたしは考えています。
──── ✵ ────
ちなみにわたしは、
太極拳や中国武術、フラ、ベリーダンス、バレエ……
そうした「型」を持つ学びを
習いごととして続けたことは、実はありません。
見学したり、
体験したことはあるけれど、
正式に修めたわけではないのです。
だからこの文章は、
わたし自身がふれてきた“稽古”という在り方を、
わたしの言葉で綴っているものです。

🌿 肉体をもって生まれてきた意味
道教の女仙の中には、
高次の存在や仙人たちと稽古を交わしていた者もいます。
たしかに、見えない存在と感応し、
内的世界の中で深まっていく稽古も、あるのでしょう。
けれど──
わたしが大切にしているのは、肉体を持つことの意味。
そして、その意味を生きることでひらかれていく、
肉体を持つことの醍醐味。
わたしの中には、昔から、
「肉体を持つことの意味とは?」
「肉体を持った歓びや悦びとは?」
そんな問いが、静かに横たわっていました。
はるか昔。
ずっと前から。
──── ✵ ────
ふれること。
みること。
声を発すること。
息を通わせること。
この肉体を持ったわたしたちが、
いのちのままに関わり合い、学び合う。
それこそが、稽古の真髄なのだと思うのです。
霊的な真理は、
ただ静かに内観するだけでは見えてこない。
いのちの真実は、
誰かとの実際的な触れ合いの中で──
関わり合いのなかでこそ、
露(あら)わになっていく。
🌿 行為の奥に、祈りが宿る
たとえば──
ノーベル賞を受賞した多くの科学者たちは、
その受賞そのものを「目的」として
研究に取り組んでいたわけではないでしょう。
もっと大きな問い、
もっと深い驚きや好奇心、
そして、世界への誠実さに導かれながら、
日々の実験と検証を、ただ、重ねていった。
そのプロセスのなかで──
「ノーベル賞に値する何か」が
結果として、生まれていっただけ。
霊的な稽古もきっと、それと同じなのだと思うのです。
──── ✵ ────
数日前、感じて応じるはたらきの中で、
ただ身体が動くにまかせていました。
すると、ある瞬間──
「ああ、今どこかで、誰かが癒されている」
そう、強烈に感じたのです。
理由はわかりません。
ただ、ただ、至福でした。
至福を「感じた」のではなく
──至福そのものだった。
わたしにとって稽古とは、
やはり祈りであり、この身を捧げる行為なのです。
そのとき──
ある記憶が、ふいにフラッシュバックしました。
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8年ほど前、
インド北部・ラダック地方で
リトリートツアーを開催していました。
標高約4,000メートル。
そこには、空を背にして立つ
巨大な弥勒菩薩像がありました。
その足元から見下ろすと──
チベット仏教の寺院が小さく眼下に広がっていて、
その片隅で僧たちが、踊りか舞のような動きを
練習していたのが見えました。
その場にいた人たち以外、
世界の誰も、その練習を知らない。
けれど──
なぜか、そのエネルギーが、
世界へと伝播していると確信したのです。
意味のある、結果や評価を求めているのではなく、
彼らはただ、
自分のやるべきことを、粛々とやっていた。
なのに、それが世界の何かを動かしている。

🌿 稽古という名の、祈りのカタチ
わたしたちは、いまここに、
肉体をもって生きている。
ならばこのカラダを通して、
見える世界と見えない世界とを結びなおすこと。
そして、物理的な関係性のなかで、
感応のチカラを取り戻していくこと。
それこそが、「稽古」なのだと思うのです。
そして、そのような稽古と共にあるもの。
それが、“行”という営みではないでしょうか。
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ちょうど今、蟹座木星の時期。
木星とは、
占星術において、拡大と恩寵の象徴です。
宇宙には「良い/悪い」はないため、
あなたが意識を向けるすべてが拡大していく。
“行”にもそんな性質がある。
やり込む、という言葉がありますが、
ただやり込むのでは未統合なままのわたしを、
そのまま大きくしてしまうこともある。
だからこそ、稽古を通して──
思考や知性以前に、触れにいく。
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わたしの仕事机の横に、
大きな内経図の掛け軸がかけられています。
ちょうど目線の位置では、
二人の童子と童女が、水車を回している。
それは、まるで──
肉体を持ったまま昇天していくための
お稽古を楽しんでいるようにも見える。
そこにあるのは、
稽古というかたちを超えた、
阿吽の呼吸による、
生きるというお稽古ごと。
繰り返し、繰り返し、
歩み、巡り、廻り、
からくりをかき廻しながら、
縁あってここで出会い、
輪廻を、超えていこうとしているように。
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木星蟹座入りに寄せて書いたブログ
リアルな愛の時間への中で、
“リア充”や“おうちでイチャイチャ”なんて言葉を添えました。
もしかすると、ここに記したような営みが──
あなたにとっての“それ”になり得るのかもしれません。
🌿 この相手、この感応、この稽古
先日、稽古の醍醐味をまるごと味わうような、
そんな素敵な体験がありました。
あらためて──
じっくりと、丁寧にカラダに触れるということが、
どれほどすごいことか。
そして──じっくりと、丁寧に、
カラダに触れてもらうということが、
どれほどすごいことか。
意識だけで、すべてがわかるほど
わたしはまだ、何もわかっていない。
けれど、カラダを通すと、
その反応は、まるで別の言語のように雄弁です。
相手が変われば、反応が変わる。
相手が変われば、もたらされるものもまるで違う。
──── ✵ ────
わたしはときどき──
目の前の相手に思わず、手が伸びてしまうことがあります。
言葉では受け取れない何かを、
ふれることで確かめようとしているのかもしれません。
それは、わたしの意思を超えて、
この手を動かしているのだと思うのです。
だって“誰にでも”手が伸びるわけではないから。
だからこそ、知っている。
「この相手でなければ」という感応が、たしかにある。
──── ✵ ────
この相手であることには、きっと理由があるのです。
それは、やる気や努力や意志のような力学では
到底、まかなえない、何か。
わたしたちの意図を超えたところで、
巡り合わせ、ふれ合わせてくれるもの。
──それを、運命と呼ぶのかもしれません。
──── ✵ ────
なにはともあれ、わたしの道を歩きつづけること。
何を達成するかの前に、
わたしは誰に向かって、どのように捧げていくのか。
その“関係性へのコミットメント”の深さが、
わたしの道の質を、決めていくのです。
そして、わたしは、ずぅっと前から──
静けさのなかで、その関係に身を委ねています。

もはやこれは、
稽古についてのブログなのか、なんなのか。
──まあ、それはきっと、
わたしの持つ魚座の月のしわざです。笑
だから、玄花のブログは、
こういうスタイルでしか綴れない。
わたしの中には、
いろんな思いがありますが、
それを、全部は書きませんし、書けません。
いくら文字数を費やしても、
それが玄花のすべてではないし、
リアルに触れ合える場でなければ
差し出せないものでもあるのだから。
──それでも、
書かなければ伝わらないことがある。
だから、いま、言葉にしているのです。
──── ✵ ────
(初出:2025年6月30日)
心の中の“ほんとう”を見つめた日。
──夏越の大祓をくぐった、そのあとで。
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出典・著作|玄花オフィシャルサイト
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