意味の手前|Love Letters
2000/05/31
2025/06/04

何気ない間、
ふとした一言、
ちょっとした表情の変化――
たったそれだけで、
わたしたちの内側には、
無数の“意味”が生まれています。
「今のは、私を否定してる」
「きっと、こう思われたんだ」
「もう、必要とされてないのかもしれない」
でもそれは、
その人の真意ではなく、
わたしの中にある“何か”が、
意味を与えた結果だったりします。
けれど、そこで
その“何か”を探しはじめると、
かえって迷子になる。
だからまずは、
なんでもないことに
「そう思った(=意味を与えた)」
という、自分の反応そのものに、
やさしく気づくことが大切です。
だって、ほんの少し前まで、
何も問題はなかったのに。
ただの会話だったのに。
そもそも、そこには意味なんてなかったのに。
でも、「そう思った」その瞬間から、空気が変わり、関係が変わり、わたし自身のまなざしまでもが、変わっていく。
そして、まなざしが変わると、世界はまったく違うかたちで立ち現れてくる。
「世界は、わたしの‘まなざし’で創られている」
特別講義「自己受容」の告知に書いたこの言葉が、今ここで、あらためて胸に響いてきます。
ポジティブであれ、
ネガティブであれ、
相手の言葉に反応して、
意味や解釈を与えることは、
“わたしの心が、
わたしを守ろうとして発動するしくみ”です。
けれど、それが無軌道に起き続けると、
まなざしを曇らせ、
現実そのものを歪ませてしまうことがある。
だからといって、そんな自分に
「ダメな私」とラベルを貼ってしまったら、
そこでまた、新たな、
意味づけのループが始まってしまいます。
もう一歩、やさしく、
――――ただ、観る。
たしかに意味づけは、
わたしの内側から生まれた。
けれどその揺れは、わたしの内と、相手の微かな気配が呼応した場で起きたものかもしれない。
しかしたとえ共鳴の中で起こったとしても、
それをどう抱くかは、わたしに委ねられている。
これは、誰のせいでもない。
ただ、ここに起きた“ふるえ”をを見つめ直す自由が、わたしにあるだけ。
ここまで読んで、
「あっ」と思った人は、
その感覚を大事にしながら本文へ。
ここまで読んで、
「なんのこっちゃ」と思った人は、
それはそれとして、本文へどうぞ。
その構造をやさしくほどきながら、自由の入り口を見つけていくヒントを丁寧に探っていきましょう。
気づきではなく、触れる。
気づきに囚われすぎると、
そこに、“わたし”と“対象”という、
分離が生まれてしまいますから。
あえて、毎回、
「自戒を込めて」
とは書きませんが...
Love Lettersで綴っていることは、
すべて実際の体験を通して
滲み出てきた言葉たちです。
本題に入ります。
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