17:意味の手前:Love Letters
2025/05/21
2025/05/21

何気ない間、
ふとした一言、
ちょっとした表情の変化――
たったそれだけで、
わたしたちの内側には、
無数の“意味”が生まれています。
「今のは、私を否定してる」
「きっと、こう思われたんだ」
「もう、必要とされてないのかもしれない」
でもそれは、
その人の真意ではなく、
わたしの中にある“何か”が、
意味を与えた結果だったりします。
けれど、そこで
その“何か”を探しはじめると、
かえって迷子になる。
だからまずは、
なんでもないことに
「そう思った(=意味を与えた)」
という、自分の反応そのものに、
やさしく気づくことが大切です。
だって、ほんの少し前まで、
何も問題はなかったのに。
ただの会話だったのに。
そもそも、そこには意味なんてなかったのに。
でも、「そう思った」その瞬間から、空気が変わり、関係が変わり、わたし自身のまなざしまでもが、変わっていく。
そして、まなざしが変わると、世界はまったく違うかたちで立ち現れてくる。
「世界は、わたしの‘まなざし’で創られている」
特別講義「自己受容」の告知に書いたこの言葉が、今ここで、あらためて胸に響いてきます。
ポジティブであれ、
ネガティブであれ、
相手の言葉に反応して、
意味や解釈を与えることは、
“わたしの心が、わたしを守ろうとして発動するしくみ”です。
けれど、それが無軌道に起き続けると、
まなざしを曇らせ、
現実そのものを歪ませてしまうこともある。
だからといって、そんな自分を
「弱いから」とラベリングしてしまったら、
そこでまた、新たな、
意味づけのループが始まってしまいます。
もう一歩、やさしく、
――ただ、観る。
ここまで読んで、
「あっ」と思った人は、
その感覚を大事にしながら本文へ。
ここまで読んで、
「なんのこっちゃ」と思った人は、
それはそれとして、本文へどうぞ。
その構造をやさしくほどきながら、自由の入り口を見つけていくヒントを丁寧に探っていきましょう。
気づきではなく、触れる。
気づきに囚われすぎると、
そこに“わたし”と“対象”という、
分離が生まれてしまいますから。
あえて、毎回、
「自戒を込めて」
とは書きませんが...
Love Lettersで綴っていることは、
すべて実際の体験を通して
滲み出てきた言葉たちです。
本題に入ります。
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