観ることの質が変わる(4)|Love Letters
2000/06/14
2025/07/15

(1)・(2)・(3)
の、続きで、このシリーズの最終章です。
🌿 “見られる”という愛の感覚
まなざしとは、
ただ目で“見る”という動作だけでは、
ないのかもしれません。
ある瞬間、
言葉もないのに
誰かの視線に触れたときに──
懐かしさや安心感、
やさしさや理由のない涙。
そんな感覚が、
ふいに訪れることがあります。
そこから先は、ひとそれぞれ。
前世の物語へとつなげる人もいれば、
もっと根源的な何かを、
思い出す人もいることでしょう。
あるいは、ただ静かに
涙をぽろぽろとこぼすだけかもしれません。
何かが評価されたわけでも、
何かが愛されたわけでもないのに。
ただ、“見られている”ということが
何かしらの作用をもたらしている。
🌿 無条件のまなざし
霊的なまなざしであるほど、
それは評価も要求も伴わず、
ただ在ることを包むようなものだと思います。
けれど、そういったまなざしを
「安心」として受け取れない人もいます。
たとえば、
すべてを見透かされているように感じて、
恥ずかしさや、恐れが湧いてくるとき。
また、
愛を受け取ることに“慣れていない”がゆえに、
その包まれる感覚を「心地よい」と、認識できないこともあります。
あるいは、
原初のパターンである
「逃走・闘争・凍りつき」反応が起こったり。
もう少し丁寧にいうと、
誰かの視線にふれた瞬間に、
思わずビクッと身体がこわばってしまったり、
まなざしに気づいていながら、
気づいていないフリをしてしまうことなどです。
けれど、こうした反応は、
間違っているわけではなく──
まだ癒されていない領域が、
まなざしによってそっと触れられた、ということ。
*このお話が、
すべての人に当てはまるわけではない、
ということも、書き添えておきますね*
🌿 まなざしの奥にあるもの
私たちは日々、
さまざまな“目”を通して、
相手を感じ、世界を受け取っています。
視線の向け方ひとつで、
相手の神経系は「安心か、警戒か」を
瞬時に判断する──
けれど、すべてが
神経の反応だけで説明できるわけではないと、
わたしは思っています。
伝えたいことは、
もっと深いところにある、
本来は、ことばにならない領域のもの。
それは生理反応でもなく、
心理的安全の話だけでもない。
そこには、
“神経の働きさえ観じている、、、“ナニカ”。
🌿 存在の記憶にふれるとき
誰かのまなざしにふれた瞬間に、
その奥にある、もっと大きな──
まなざしを感じたことがあります。
それは、相手を通して、
世界や存在そのものが、
自分を見つめているような感覚。
それは、ほんの一瞬、
深く響き合ったときだけに起こる、
とても静かで、滅多にない体験です。
それを思い出すだけで、
理由もなく涙があふれたり、
映像のようなものが、ふいに、
浮かび上がってくることもありました。
そうした記憶や感覚も大切にしながら、
ただ、“今ここ”の感受性に、そっとひらかれていたい。
そんなふうに思うのです。
🌿 まなざしが、今をひらく
それは、物語の記憶なのか。
それとも、存在の記憶なのか。
きっと、
物語のずっと手前にある残響が胸を打ったとき、
それは、涙となってこぼれ落ちるのだと思うのです。
✧༚ 𓂃 ひびき 𓂃 ༚✧
けれど大切なのは、
それが何の記憶かを追いかけることではなく、
「今」ここでわたしの体を通り過ぎていく
その感覚を、ただ、感じていられるかどうか。
いま、どこに意識を向けるのか。
それが、本当に大切なのですね。
世界は、わたしのまなざしで創られている。
──あなたは、いま、どこに
まなざしを向けていたいですか。
愛を受け取ることについては、
こちらの告知をご参考になさってください。
愛すること ↔ 愛されること
ふれること ↔ ふれられること
観ること ↔ 観られること
その‘間’に、ほんとうの出会いが息づいている。
このシリーズでは、
身体・神経・霊性という異なるレイヤーから、
「観る質」の変化を少しずつ紐解いています。
今回は“霊的観点”からお届けします。
本文へどうぞ。
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